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2017年1月10日 (火)

津島佑子『笑いオオカミ』

津島佑子さんの名は高校時代から知っていたけれど、なぜか読まずにきてしまった。わたしが唯一すべての著作を読んだのは太宰治であるのだが、どちらかというと苦手。それでこの作家を敬遠していたということがあるかもしれない。津島さんは1947年に生まれ、昨年亡くなられた。

『笑いオオカミ』(2000年、新潮社)は12歳の少女と17歳の少年が10日間の旅をする話である。舞台は戦後まもない東京。

少女の父は墓地で無理心中死し、そこで寝起きしていた少年はそれを目撃したという設定。冒頭から太宰の影が落ちているようで、父を知らない娘を主人公にしたことは津島さんがこの作品にかける意気込みを語っているとも思える。

「みつお」と名乗る少年は「ゆき子」をさらうようにして、北へ行く列車に乗る。『ジャングル・ブック』になぞらえ、自分を「アケーラ」、ゆき子を「モーグリ」と呼び、「ジャングルの掟」をおしえながらの旅だ。

『ジャングル・ブック』はイギリスの作家ラドヤード・キップリングが1894年に出版した短編小説集で、虎に追われた人間の子がオオカミに救われ、育てられる物語。「アケーラ」はオオカミ、「モーグリ」は人間の子どもの名前である(呼び名は途中から『家なき子』の「レミ」と犬の「カピ」に変わる)。

闇市、地方の食堂や屋台、幽霊船。「アケーラ」は生きていくための知恵を持っていて、「モーグリ」をまもる。「モーグリ」は「アケーラ」を信頼し、必死でついてゆき、二人の間に兄妹のような感情が芽生える。

戦後の混乱を描きながら、コレラや一家心中、野犬、誘拐事件などの新聞記事を載せて、当時の社会状況を伝えている。最後は通報されて「アケーラ」は逮捕され、「モーグリ」は聴取を受ける。わたしとしては数年後の二人を描いてハッピーエンドにしてほしかったけれど、最後に少女誘拐の記事がおかれていて、その事件に着想を得たのだと納得した。

津島さんにとっては、自分の分身のような少女と父にまもられた過去を持つ少年に戦後の混乱期を体験させること、そこは「ジャングルの掟」のようなものがない無法状態であり、あさましいサルがいるばかりだった、ということを書かなければならなかったのだと思う。大佛次郎賞を受賞した、たいへんな力作である。

2016年12月27日 (火)

ボルタンスキー展

9月22日から12月25日まで庭園美術館でひらかれたクリスチャン・ボルタンスキー展『アニミタス--さざめく亡霊たち』を見た。ボルタンスキーの名は十年ほど前にパフォーマンス・プロデューサーの二瓶龍彦さんからおしえてもらった。

ボルタンスキーは1944年パリ生まれ。独学で制作を始め、映像作品やインスタレーションは国際的に注目されている。東京では初の個展。

庭園美術館は旧朝香宮邸、アールデコ建築の美しい建物である。順路に従って部屋に入ると、ささやきのような声が聞こえてきた。「この辺は滑りやすいから気をつけて」、「まるでわたしたちは、もうこの世にいないようですねえ」。思わず周囲を見回して、それがスピーカーから流れているのに気づいた。詩人の関口涼子が書かれたもの。

小部屋を舞台にした「影の劇場」はブリキや段ボール」で作られた小さな骸骨、首つり死体、コウモリなどがライトに照らされ、壁に影が映っている。本体も影も死を連想させる。ボルタンスキーはインタビューのなかでこの作品を「子どもじみている」と言っているが、呪術の道具のようでもあり、かなり不気味だ。

「心臓音」は小さな部屋の置かれた赤い電球が明滅するもの。匿名の「誰か」の心臓音であるノイズが流れ、この空間に長くとどまったら、気が狂うのではないかと思ってしまった。

黄金色の山のようなオブジェ「帰郷」は大量の古着がエマージェンシー・ブランケットでおおわれている。古着は見えず、いびつなかたまりなのだが、捨ておかれた服はアウシュヴィッツを連想せずにはいられない。

「帰郷」を取り巻くようにして吊られているのが「眼差し」。拡大された「目元」の写真が薄布にプリントされ、カーテンのように揺れる。ちょっと挑発的だと思った。

そして二つの映像作品、「アニミタス」はチリのアタカマ砂漠で揺れる数百の風鈴を撮ったもの。「アニミタ」とはスペイン語で「小さな魂」を意味するが、チリでは交通事故などで亡くなったひとのための「小さな祭壇」のことだそう。風鈴は日本製で、ほとんど人が訪れることのない高地に設置されている。

「アニミタス」と対になっている「ささやきの森」の舞台は日本の豊島(香川県)。山のなかの木々に取り付けられた四百の風鈴と短冊が木漏れ日の下で揺れる。短冊には大切なひとの名が書かれているという。祈りのインスタレーションである。

交通事故や地震その他の災害、戦争などによって失われた「匿名の」人びとを思うこと。ボルタンスキーの父はユダヤ系のフランス人で、危うくアウシュヴィッツ行きを逃れたが、そうした話を聞いて育ったことで、匿名の人びとの生と死が生涯のテーマになった。

インタビューによると、大切なのはこの作品を実際に見ることではなく、砂漠と山でたくさんの風鈴が揺れている作品があると知り、見に行こうと思えば行くことができることを知ることなのだという。ボルタンスキーは新しい神話を作ろうとしている。集合的な記憶になるような作品を生みだしているのだと思う。

見た人が美しいと思うのではなく、これは何だろうと考えてくれるような作品を作る。ボルタンスキーは使命をもって創作を続けているアーチストであることを知った。足をはこんでよかったと心から思える個展だった。

2016年12月21日 (水)

エレナ・トゥタッチコワさんのトークイベント

12月20日の夜、恵比寿のPOSThttp://post-books.info/news/でエレナ・トゥタッチコワさんの写真集『林檎が木から落ちるとき、音が生まれる』の刊行を記念するトークイベントがひらかれた。

まず14分間の映像作品『In Summer、With My Dinosaurs』が上映される。富ヶ谷のスペースnaniで12月の5日間上映されたもの。揺れる木や草、川に飛び込み、宝物を探す子どもたち。流れる水の音。写真集とはちがう魅力的な作品である。

写真集のデザインをなさった須山悠里さんの司会で、エレナさんの話を中心に乙益由美子さんとわたしが「記憶」をテーマにした詩を朗読する。エレナさんに会ってから書いた新作も読ませてもらう。出演予定だったぱくきょんみさんが諸事情で来られず、エレナさんとのトークはなしになって残念。

エレナさんは1984年、モスクワ生まれ。子ども時代を再生するように映像作品を作ったという。ふつうの日本人よりも語彙が豊かで、ことばを探るように考えながら、かなりの早口で話す。その表情がたいへんチャーミングなのだ。表現したいという思いがあふれて、それが日本語の上達につながったとわかる。

白い壁にはエレナさんが日本語で書いた文章。上手さに驚く。拙詩集に感想ももらった。現代詩を訳したこともあるのだそうだ。

「これからが始まりです」ということばを頼もしく聞いた。この先、彼女はアーチストとして大成してゆくだろうと思う。

須山さんのお父様でエクリhttp://www.e-ecrit.com/という出版社を運営されている須山実さんともお会いできた。ぱくきょんみさんが声をかけてくれたおかげでたくさんのひとと知り合うことができた。一年の締めくくりにふさわしいイベントに関わることができた夜だった。

写真展は12月29日までですので、みなさまぜひ足をお運びください。

2016年12月17日 (土)

ゴッホとゴーギャン展

東京都現代美術館で『ゴッホとゴーギャン展』を観た。12月18日までというので、大変な人出。どの絵の前にも人だかりができて、通過するしかないという状態だった。

ゴッホの絵は損保ジャパン日本興亜美術館にある大作『ひまわり』を観ただけ。今回はどうしても「靴」を観たかった。ほとんどモノクロで描かれた紐のある古い靴。ハイデガーが激賞したという有名な作品である。

画家の矢野静明さんのアトリエで年に数回ひらかれている現代美術茶話会に参加している。メンバーは瀬尾育生さん、倉田比羽子さん、築山登美夫さん、矢野夫人。そこで、ゴッホの「靴」をめぐる論争が話題になった。

ハイデガーが靴を農夫のものと解釈している(『芸術作品の根源』)ことについて、美術史家のメイヤー・シャピロ(1904-1996)は、ハイデガーの勝手な思いこみに過ぎず、ゴッホがパリではいていた靴であることを立証し、ゴッホの自画像であると唱えた。

それにデリダが加わり、古靴は自画像ではなく、返却不可能なもの、何ものにも帰属し得ないものに捧げられていると指摘した。左右一対のものではないという説もあるという。とにかく議論を呼んだ作品なのである。

予想外に美しい絵だ。ゴッホは印象派の技法を取り入れ、かつ輪郭をくっきり描いた。生前に売れた絵は一枚だけ。家族も持たず、精神を病んで37歳で自殺した。

つまらない絵はひとつもない。風景画はもちろんすばらしいが、人物画もよいと思った。自画像も含めて、どの顔も存在することの哀しみをたたえている。

一緒に展示されている同時代の画家の作品がひどく平板にみえた。

2016年12月 7日 (水)

エレナ・トゥタッチコワ『林檎が木から落ちるとき、音が生まれる』

詩人のぱくきょんみさん宅でモスクワ出身の写真家エレナ・トゥタッチコワさんにお会いした。12月9日から29日まで恵比寿のhttp://post-books.info/news/で彼女の写真展『In Summer:Apples, Fossils and the Book』がひらかれる。20日(火)にエレナさんとぱくさんのトークがあり、乙益由美子さんとわたしが朗読をすることになって、顔合わせをした。

エレナさんは1984年生まれで、日本に来て約5年。芸大大学院に通っているそうだが、完璧な日本語を話す。話したくてたまらないというようにことばがあふれてくる。明るくてかわいい女性。

できあがったばかりの写真集『林檎が木から落ちるとき、音が生まれる』(torch press)をいただいた。夏の川で遊ぶ少年や少女。空は真っ青というより浅黄色で、子どもたちは無邪気な年齢を過ぎて、世界の複雑さを知り始めたように、どこか心細げにみえる。

エレナさんは子どもの頃の話をたくさんしてくれた。夏に過ごす家は「ダーチャ」と呼ばれ、そこにお祖母さんが住んでいて、長い休みに家族で出かけていく。川で遊び、化石や恐竜の骨を掘り出し、自分だけの宝物を探す。それがエッセイになって写真集の最後に載っている。ラストを引く。

林檎が木から落ちた。それだけのこと。木にいたときも誰の目にも触れず、落ちても草の中に隠れたままの小さな林檎。その音だけがいつまでも記憶に残った。アーニャが11歳になった年の夏の終わり、彼女の髪の毛が一番長く伸びた8月のことだった。

林檎は3種類あるのだという。小さくて酸っぱいもの、堅いもの、白くて透明なもの。透明な林檎はロシア特有のものだろうか。

エレナさんは自然と人間の関わりや文化的現象を通じて、記憶がどのように形成されるかということに関心を抱いて、リサーチを重ね、写真や映像、音、テキストによるインスタレーションとして構成している。

ぜひ足をお運びください。

POST 渋谷区恵比寿南2-10-3 月休 12:00-20:00

2016年12月 2日 (金)

ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』

詩人の草野信子さんにおしえてもらったミハイル・ブルガーコフ(1891-1940)の『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫訳・河出書房新社)を読んだ。

ブルガーコフはソビエトの作家。スターリンに直接手紙を出すこともできる立場にあったのに、あからさまに体制批判をしたわけではないのに、彼の本は出版されなかった。危険な書物とみなされたのだろうか。

悪魔の一味がモスクワを混乱に陥れるというドタバタと巨匠とマルガリータの恋物語が並行して描かれている。

冒頭は作家のベルリオーズと詩人のイワンが公園でキリストの存在について話をしているところに外国人が割って入ってくるシーン。外国人は実は悪魔で、ヨシュア(キリスト)の刑死前後にその場にいたと言うが、もちろん二人は信じない。それなら、とさまざまな予言を魔法を使って現実にしていく。

作家協会の会員や劇場のお客など、権威や金に振りまわされる人間の愚かさを笑う物語になっている。ただ巨匠が書いたとされる小説はすばらしい。ローマ総督ピラトゥス(ピラト)がヨシュアの磔刑を止められなかったことを悔やんでいるという内容であるが批評家にけなされ、巨匠は精神に異常を来してしまう。

池澤夏樹さんが栞に書かれているように、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を彷彿とさせる。二男のイワンが作った劇、中世のスペインにキリストが甦り、大審問間官と対決する物語だ。大審問官は神の存在は認めるが、信じない。ピラトゥスはヨシュアの起こす奇蹟を目の当たりにして、心が揺れるのだ。

マルガリータの無心の愛が巨匠を救いだす。出会いから別れ、再会まで二人の物語はこの猥雑な長編において清涼剤のようになっている。「エピローグ」として、たくさんの登場人物のその後が書かれているけれど、なくてもよいように思った。純朴なヨシュア、苦悩する頭痛持ちのピラトゥス、ヨシュアの良き弟子マタイの物語は緊張感に満ちている。ドストエフスキーに負けていない。ブルガーコフは天才にちがいない。

2016年11月27日 (日)

「詩を書こう、詩を読もう。」2016年・秋

11月19日、20日に所沢市立図書館で第17回「としょかんまつり」がひらかれ、「詩を書こう、詩を読もう。」というイベントに出た。

所沢在住の詩人、松本邦吉さんと一緒に「果物の詩」の応募作品を講評した。雨のせいか参加者が少なくて残念だったが、若いひとが数人来てくれた。近くの高校の生徒さんたちで、文芸部所属とのこと。顧問の先生もいらした。

初めて詩を書いたというが、なかなかよいものを持っていると思った。今回は「果物」がテーマということではなく、「果物」が登場する作品が応募されることを想定していた。けれどもほとんどのひとが果物を目の前にして、自身の思い出などを書いている。わたしが応募する側であったとしてもやはり果物にスポットを当てた作品を書くだろうと思う。けれども高校生のみなさんは感傷的なことを書いたりせず、果物を主役に切り口のおもしろい作品を作ってきた。

アニメや映画の影響もあるのだろうが、表現するちからを持っているように思えた。軽妙なリズムや伸びやかな想像力で一編を作りあげている。

もちろん年配の方々も推敲を重ねた作品を読ませてくれて、評者冥利に尽きると言いたい気持ちになった。

また前回に続いてご一緒してくれた松本さんの評にはうなった。「私ならこう書きます」という語り方で、ていねいなアドバイスをされたのである。

辛口になってしまうことをまず反省し、松本さんのことばに対するこだわりやタイトルの付け方のセンスを学ばせてもらった。さらに先日、文芸部顧問の先生からお礼のハガキがとどき、恐縮した。

今回は参加者の顔ぶれが変わったので、詩とは何かという説明からはじめることになった。初応募の方の作品には作文をただ行分けにしたようなものもあった。けれども、毎回何かが生まれていると思う。それが何かはまだ言うことはできないが、わたしたち詩人が詩を書くことは楽しいと伝え、書き続けてくれるように願う、この時間が、いつか優れた作品が生みだされる土壌になってくれるはずだと信じている。

2016年11月17日 (木)

福間健二監督『秋の理由』

『秋の理由』を観た。福間さんの映画はすべて観ているが、詩人の世界がそのまま映像になっていることにいつも大きな驚きを感じる。詩のことば、好きな食べ物、住んでいる街、気に入っている場所や音楽、すべて知ることができるのだ。

60代の編集者、宮本(伊藤洋三郎)が主役で、やはり60代の小説家、村岡(佐野和宏)とその妻である美咲(寺島しのぶ)が主要な人物。村岡は『秋の理由』を出した後、書くことができない不調から声が出なくなり、村岡の才能を信じる宮本は新作を本にしようと待っている。

筆談器を使って短い会話をする村岡。彼の苦悩は身体の動きと表情で表現されている。美咲の忍耐が切れるシーンに共感をおぼえた。働かない夫との会話のない生活に疲れ果てた妻は身体に村岡の手が触れた瞬間、はげしい憎悪をぶちまけ、夫を殴る。わたしが妻であっても同じことをするだろう。

翌朝、ペットボトルの水を直に飲もうとした夫にコップを手渡す仕草がとてもさりげなくて、うなった。

妖精のような存在として登場するミク(趣里)が着ている男物らしいカーキ色のジャケットと大きな靴にアシュベリーの詩「若い王子と若い王女」を連想して、いいチョイスだと思った。

こばやし食堂のオーナーシェフ役の安藤朋子さん、彼女が主役を演じる芝居を二度観たことがあり、舞台とはちがう脇の演技を見ることができた。

詩『秋の理由』のすてきなフレーズがくりかえされる。

ゆるされたと思うのは錯覚だが

この世界はいい匂いがする

自分の力でわかったことも少しはある

旅をして

長い列のうしろに並んで

キンモクセイの坂道の下

わたしは顔や手に粘りつく暗示を洗いおとして

だれかが泣いているために

秋が来たわけではないことを知った

落ち葉、どんぐり、紅葉する木々、キンモクセイ、空。秋の風景が美しい。昨年の今日クランクインしたという。一年前の国立で撮られた映画、同じ秋のなかにいることが特別なことのように思えてくる。

欲をいえば、村岡の小説『秋の理由』の内容を知りたかった。6日と30分で撮ったそうなので時間の制限ということもあったと思うけれど、おおまかなストーリーを入れてほしかった。

上映後のトークで、映画監督の城定秀夫さんが何度も「気持ちのよい映画」と言っていた。確かにそうだ。福間さんの詩の世界は風通しがよくて気持ちがよい。生きる歓びにあふれている。福間さんにずっと励まされて、わたしは今も生きて詩を書いている。

大きな収穫は「ぼくはまだ黒い芯を昂ぶらせている」の意味がわかったこと。想像していたことと違ったので、まだ少し疑っているのだけれど。帰りに思いがけず福間夫妻にご挨拶できて、よかった。

2016年11月 4日 (金)

ヒューズ兄弟監督『ザ・ウォーカー』を観る

2010年の映画『ザ・ウォーカー』を観た。テンゼル・ワシントン主演の近未来を舞台にしたアクション映画で、原題は『THE BOOK OF ELI』。

世界が崩壊した後、主人公のイーライは一冊だけ残った本を心の声にみちびかれて西へはこぶべく30年のあいだ歩きつづけている。本に触れようとする者は容赦なく切り殺す。近未来の設定なのに刃を使うのはISを連想させられて、不快な気分になった。

立ち寄ったバーで水を分けてもらうために持ち物を渡すのだが、そのなかにケンタッキーフライドチキンのおしぼりが入っていて、笑ってしまった。それで身体を拭くシーンもある。

ある町の独裁者カーネギー(ゲイリー・オールドマン)がイーライの本に目を付け、奪うためにあらゆる手段を尽くす。ゆえあってカーネギーの娘ソラーラ(ミラ・クニス)と逃げる途中で本はカーネギーの手に渡ってしまう。

それでも西へ向かうのはなぜか。それほど価値ある本とは何か。

ラストはファンタジーに近くて、もっと別の終わり方はなかったのかと思った。ソラーラの盲目の母を『フラッシュ・ダンス』のジェニファー・ビールス、修理屋を歌手のトム・ウェイツが演じていて、懐かしくうれしい気持ちになった。

実はその本をわたしは持っていて、本をモチーフにいくつかの詩を書いた。見終わって書棚から取りだし、イーライが朗読した箇所を読んでみた。

モノクロに近い風景の映像が美しく、わからないところがいくつもあるけれど、見て損はない映画だと思う。

2016年10月25日 (火)

個人誌について・「試行」のこと

個人誌を発行して30年ほどになる。個人誌とは本来は「一人の同人の原稿だけで作られた同人誌」のことだそうだが、そういうものではない。わたしは編集発行人であり、誌面は作品を発表したいひとに提供するスペースと考えている。

同人誌に対する違和感から個人誌を発行するようになった。ふつう、同人誌には巻頭言(マニフェスト)があり、共有する体験や思想がある。それに異を唱えるようなものを書くことは許されない。かなりきゅうくつである。

先日若いひとから個人誌を作る意味はあるのかという質問を受けたのだが、うまく答えることができなかった。そのひとは自分の作品をお金を出して印刷し、無料で配布することは非生産的だと考えたのだと思う。お金にならないことをなぜやっているのか、ということ。

初期の頃に詩誌を置いてくれたブティックのオーナーも売れないものをなぜ作るのかと言った。そう思うのは当然の地味な冊子である。それでもいつか何かがここから生まれるはずだと信じて疑わなかった。

個人誌は基地(ベース)のような場所だと思う。そこでこつこつと書き、依頼があれば外に出て行く。

個人誌といえば1961年に創刊された「試行」である。初めは谷川雁・村上一郎の共同編集の同人誌だったが、11号(1963年6月)から吉本の単独編集で個人誌に変わった。書庫から取りだして開くと、「報告」と題した紙片が入っていた。

この間、さまざまな状況を切抜けてきましたが、いま、確かに報告できることは、各同人が模索の段階を脱し、それぞれが〈自立〉的な発展にむかって踏みこんでゆく根拠を獲得したということであります。これを契機にして、今回、各同人は、夫々自主的な道へ発足することになりました。谷川、村上、吉本の三人を同人とする雑誌「試行」は、第十号をもって終刊いたします。

同人谷川雁は、取敢えず大正炭鉱地区での活動に専念する予定です。同人村上一郎は、厳密に構想を立てた後、個人的に文学・思想活動の雑誌を刊行する所存であります。同人吉本隆明は、雑誌「試行」を文学・思想運動の雑誌として継続刊行してゆきます。

初めて目にしたのは79年頃で、こういう冊子のやりかたもあるのだと知った。「試行」は同人誌の理想だったと思う。内容では遠く及ばないけれど、形だけでも近づきたいと思った。投稿を卒業して、作品を発表する場所を求めていくつかの同人誌に所属したものの、どこにもなじめなかった。

個人誌は基地(ベース)であり、いろいろな書き手が集まるなかで、いつか共同性や大きな才能やムーブメントが生まれてくればいい。これからもそういう気持ちをもって、わたしは詩誌を出し続けるだろうと思う。

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