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2017年8月20日 (日)

「詩客」時評2

「詩客」の時評に「反戦詩について 主体性のありか」という文章を書いた。

2014年に宮尾節子さんが出された詩集『明日戦争がはじまる』(思潮社)の表題作を読んだのは2015年のことだが、危険な詩だと思った。

短い感想を送り、翌年お会いしたときもその話をしたのだけれど、うまく伝えることができなかった。

今年になって瀬尾育生さんの『戦争詩論』(五柳書院)、矢野静明さんの『日本モダニズムの未帰還状態』(書肆山田)、吉本隆明さんの「四季派の本質」などを読み、考えが少しまとまったので、「時評」というには古い話題ではあるが、書いてみた。

もう書きたいことを書いておかなければならない年齢になったと思っている。批判や孤立を怖れていては何もできない。

宮尾さんの詩の他、栗原貞子さんの「生ましめんかな」のこと、「詩に何ができるか」ということなども書いている。

興味のある方はぜひのぞいてみてください。どんな反応が来ても真摯に受けとめようと思っています。

2017年7月31日 (月)

遠藤利克『聖性の考古学』

埼玉近代美術館でひらかれている遠藤利克展『聖性の考古学』http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=359へ。サイトで紹介されているタイトルと作品を見て閃めくものがあって、出かけた。

できれば海へ行きたかったが、叶わないので、何か大きいものを見たいと思ったのだ。

木の彫刻である。木は焼かれて炭化し、黒くなっている。「空洞説―沈む舟」は広いスペースに斜めにおかれた木彫りの大きなもの。どっしりとした質感がある。

巨大な柱を横切りにしたような「空洞説(ドラム状の)-2013」には表面のところどころに釘が打たれている。釘のほとんどは曲げられていて、見る側が恐怖を感じることはない。

12の作品に詳細な説明はなく、作者がどのようなひとなのかもわからない。それが清々しくてよかった。

惹かれたのは「水路」と名づけられた作品。映画『スターウォーズ』で主役たちが紛れ込んだゴミ置き場のシーン。壁が両側から押してきて潰されそうになるのだけれど、その壁のような形状だ。

小さい頃にこういう場所で遊んだ記憶があるような、懐かしい形。

遠藤利克さんは1950年岐阜県生まれ。宮大工の家に生まれ、少年時代に仏師の元で一刀彫りを身につけたそうである。

舟や桶、棺などをモチーフにした作品は身体にダイレクトに働きかけてくる。触ってみたい、そのなかに入りたいと強く思った。

作品に火をつけたり、水を流したりというインスタレーション(?)も行っているという。

遠藤利克さんは8月26日から所沢でひらかれる「引込線2017」http://hikikomisen.com/にも参加されるらしいので、ぜひ見に行こうと思う。

2017年7月19日 (水)

『インターステラー』を観た

クリストファー・ノーラン監督のSF映画『インターステラー』を観た。2014年制作。本格的な宇宙物で、見応えがある。

舞台は近未来のアメリカ。植物が枯れ、異常気象で人類は滅亡の危機にある。主役の元宇宙飛行士クーパーを演じるのはマシュー・マコノヒー。昔はポール・ニューマンに似ていたけれど、ずいぶんやせて、誰だかわからなかった。

クーパーと10歳の娘のマーフは重力波を使ったサインらしきものを読みとり、秘密施設にたどりつく。

そこは閉鎖になったはずのNASAだった。クーパーは恩師であるブランドン教授に再会し、別の銀河に人類の新天地を求めるプロジェクト「ラザロ計画」の協力を求められる。

すでに計画は始められていて、戻ってきていない宇宙飛行士もいるが、子どもの未来のために、クーパーは任務を引き受ける。

いつ帰還できるかはわからない。惑星の1時間が地球の数年に相当したりするのだ。

ブランドン教授の娘アメリアにアン・ハサウェイ、氷河の星からねつ造データを送ってきたマン博士がマット・ディモンという豪華キャスト。

異空間にまぎれこんだクーパーの裏側がなぜか自分の家になっている。どうなっているのかよくわからないけれど、時間のねじれによるらしい。

そこで書棚の本を落としたり時計の針を動かしたりして娘のマーフにサインを送る。マーフは賢い娘で、それが何かを意味するとわかっている。成長したマーフはNASAで働きはじめる。

ワームホールや時間のねじれ、重力波、バイナリ通信、興味深い現象がたくさん出てくる。一度観ただけでは理解できないけれど、ブランドン教授が口にするディラン・トマスの詩「穏やかな夜に身を任せるな」や月面着陸の事実(?)がなかったことにされている教科書など細部も楽しむことができる。

本気で作られたハードなSF映画です。

2017年6月30日 (金)

ボブ・ディラン『NO DIRECTION HOME』

画家の矢野静明さんにおしえてもらって、ボブ・ディランのDVDを見た。2005年に制作されたドキュメンタリー(2枚組)。監督はマーチン・スコセッシ。

映像とインタビューで構成されている。当時66歳のディランは生真面目な表情で、ことばを選びながら話し、青く深い目が俳優のようだ。

ミネソタで過ごした少年時代の回想から始まり、50年代末にニューヨーク、グリニッジビレッジへ。フォークシンガーたちと出会い、カフェや路上で演奏し、自分の音楽を作りあげていく。

アメリカでは60年代に公民権運動が起こり、「風に吹かれて」はそれについての「プロテスト・ソング」と言われた。ディランはそのように呼ばれることを嫌った。人びとの連帯や行動をもとめる歌ではない。けれども運動に関わる人びとはディランを利用しようとし、彼は拒否する。

一貫してディランは自身の内奥を探り、自分に語りかけるように歌ってきた。「時代の精神を歌う」曲を作ることがすべてだった。そしてフォークからロックへの転向。ツアーの日々、殊にヨーロッパではファンのブーイングはひどいもので、苛立つディランの表情が生々しい。

ジョーン・バエズも登場する。バエズの美声は2005年の時点でも若いときと変わっていないし、彫りの深い顔立ちはそのままだが、全体的にごつい感じになっているような気がした。反戦歌手として歌い、デモに参加してきたと語っているが、あまりうまく年を取ることができなかったのではないかと思う。

一方、アルバム『フリーホイ-リン』のジャケットで恋人として一緒に写っていたスージー・ロトロは現在アーティストで、とても魅力的にみえる。

カントリー音楽からフォーク、さらにロックへ。青年ディランが伝説のアーティストになるまでを追った映像。レアな音源や映像が使われ、ボブ・ディランの魅力を堪能することができる。

2017年6月16日 (金)

ボブ・ディランの日々

遅ればせながらボブ・ディランを聴いている。「風に吹かれて」がヒットしたとき、わたしはまだ子どもだった。歌っていたのはピーター・ポール&マリー。

メッセージ性の強いフォークソングは苦手だった。小学生の頃はトランジスタラジオで英米のポップスばかり聴いていた。その後シンガーソングライターの時代が来て、高校時代の女神はキャロル・キングだった。

この10年はクラシック、最近はバッハの『マタイ受難曲』を朝から晩まで聴いていたが、ここに来てボブ・ディラン漬けになっている。

先日、ノーベル文学賞の受賞講演が発表された。それについて短い文章を書こうと思い、唯一持っているベスト盤をくりかえしかけている。

気になっているのが「Forever Young」。沖縄の三線のような音が入っている。何の楽器だろうと、この曲は特に集中して聴いてしまう。

ディランの影響を受けたミュージシャンは多い。パティ・スミスやブルース・スプリングスティーンが有名だけれど、ポール・サイモンやジョン・レノンもそうだと思う。日本では桑田佳祐、奥田民生など。詩人では福間健二さん。

人間の内面に分け入っていく複雑な歌詞、息の長い歌い方。

「はげしい雨が降る」が聴きたくて、『フリーホイ-リン』を買った。授賞式のときに名代で歌ったパティ・スミスが歌詞をまちがえ中断するシーンを見た。何かとても温かいものが流れた時間だったと思う。

締め切りまで二週間。書けるだろうか。

2017年5月28日 (日)

アドルフ・ヴェルフリ展

東京ステーションギャラリーで『アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国』(2017年4月29日-6月18日)が開催されている。http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201704_adolfwolfli.html

画家の矢野静明さんのお薦めで、倉田比羽子さんと一緒に行ってきた。ヴェルフリは「アウトサイダー・アート」の芸術家、巨匠である。「アウトサイダー・アート」とは正規の美術教育を受けていないひとが制作した作品のこと。

「アール・ブリュット」として提唱された当初は精神障害者や受刑者の作品を対象としたそうだ。

ヴェルフリの絵はすべて新聞用紙に鉛筆、色鉛筆で描かれている。余白がなく、絵と文字と音符で埋め尽くされている。

アドルフ・ヴェルフリ(1864-1930)はスイス・ベルン近郊の貧しい家に生まれ、悲惨な少年時代を過ごした。統合失調症のため31歳で精神病院に収容されて、四年後に創作に目覚め、66歳で死去するまで描きつづけた。

一日に鉛筆1本を使いきったという。どの絵にも自分の顔、鳥、飾り罫(?)などが描き込まれている。

複数の図案を組み合わせることによって、一枚の絵を作りあげていて、宗教画のようにも見える。

殊に白い鳥が好きだったらしく、デフォルメされたものが至るところに配されている。

空想の世界を自伝のように描いた『揺りかごから墓場まで』、理想の王国を築く方法を描く『地理と代数の書』、音楽への愛があふれる『歌と舞曲の書』。

ヴェルフリは25,000頁の絵を遺した。

育った家や働いた農場、病院の映像が流され、自らのレクイエムとして作った「葬送行進曲」も聞くこともできる。

帰宅して、美術館のチラシにあるヴェルフリの自画像や鳥をまねして描いてみた。何だか楽しくなってきた。

子どものころ、好きなものや得意なものばかりを飽きずに描いていたことを思いだした。

がっしりした体躯と意志的な顔をもった画家は永遠の子どもだったのだろう。

子どもの部分を手つかずのまま心の一隅に宿しているのが芸術家なのだと思う。文学者もまた。

2017年5月21日 (日)

「詩客」時評 

「詩客」というサイトで時評を担当することになった。第一回がアップされている。タイトルは「詩を二つに分けるもの 〈感性の秩序〉ということ」。

今年に入ってとどいた詩誌「栞」5号、発行人の山岸光人さんが書いているエッセイ「詩集を読んで70年代を振りかえる・・・」について触れている。

取りあげられているのは松下育男さんと菊池千里さんの詩集。山岸さんは松下さんの詩集に対する当時の批判を引用していて、そのなかの瀬尾育生さんの文章(『現代詩手帖』1980年の詩時評)に「この世界の感性の秩序」ということばがあった。

昨年わたしは菅野覚明さんの『詩人の叡智 吉本隆明』をおもしろく読んだのだが、そこにも「感性の秩序」ということばがあり、吉本さんが使われたことばなのだろうと著作集をひらいたところ「『四季派』の本質」に出ていた。

菅野さんはこのことばを「芸」としての詩について語る部分に使っている。

「感性の秩序」とは何か。興味のある方はぜひお立ち寄りください。

http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/1d8bfc89ff6a0c80a2124fb2f304ee32

2017年5月11日 (木)

N響のチャイコフスキー

5月3日、上野文化会館でN響のコンサートを聴いた。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ短調op.35と交響曲第5番ホ短調op.64。

指揮はロベルト・フォレス・ヴェセス。巨匠チャイコフスキーの音楽はポピュラーに過ぎるし、期待していなかったのだが、これが大違い。心揺さぶられた。

3階席で残念ながら顔は見えなかったけれど、バレンシア出身の若い指揮者の動きに釘付けになった。細いからだ全体を使ってアグレッシブで繊細な音楽をつくっていた。N響のひとたちもそれに応え、少しずつ演奏に一体感が生まれていくのがわかった。

あたりまえだが、Eテレで見るN響の演奏とはまったく違う。生演奏にはテレビやCDを聴いているときには味わえない礫のような音の勢いを感じる。ソロの楽器を演奏しているひとを探す愉しみもある。

協奏曲のソロは大江馨さん。1994年生まれの気鋭のヴァイオリニストで、軽やかで深い音を奏でていた。ベテランの円熟した演奏もよいけれど、歯切れのよいヴァイオリンがチャイコフスキーの音楽に新風を吹きこんだと思った。

音楽については素人なので、感想を書こうとすると慣用的な表現ばかりになってしまい、我ながら情けないのだが、万雷の拍手だった。

チャイコフスキーの音楽を聴いて涙が出ることがあるなんて思わなかった。指揮者のちからを感じた一日。谷中を抜けて日暮里まで歩くあいだ満たされた気持ちに浸りました。

2017年4月19日 (水)

おぞましい小説

イアン・マキューアンの『セメント・ガーデン』(宮脇孝雄訳・早川書房)を読んだ。イギリスで手練れと称されるベストセラー作家の長編第一作。1978年に発表され、日本では2000年に刊行されている。

15歳の少年ジャックが語り手。両親が死んで残された四人兄弟は離ればなれにされることを怖れ、親の死を隠蔽するため、死体をコンクリート詰めにする。

子どもだけの生活がはじまる。姉のジュリーはボーイフレンドと遊びまわり、二女のスーは部屋にこもり、末っ子のトムは女の子の格好をし、ジャックは自慰行為にふける。

母親をコンクリート詰めにした秘密と日々をやり過ごすことが兄弟の共有するもので、それぞれが未来を夢見ることもない。

ジュリーのボーイフレンドが秘密に気づき、さらにジュリーとジャックの近親相姦の現場を目撃してしまう。

姉と弟が性交する展開には驚いた。二人は仲が悪いという設定だし、そこに至る伏線もない。傍には乳児返りをした弟もいて、おぞましい光景以外の何ものでもない。

ブッカー賞の候補になったらしいが、感動させられるような台詞もシーンもなく、四人のうちの誰にも感情移入ができない。

小説には〈救い〉がなければならないと思う。この小説を読んでいるあいだ、ずっと不快感が消えなかった。ここから宗教と大人の恋愛を扱った優れた小説『未成年』(2015年)に辿りついたのだ。やはりすごい作家にちがいない。

2017年4月15日 (土)

『言の葉の庭』を読む

新海誠さんの小説『言の葉の庭』(角川文庫)を読んだ。劇場アニメーションを監督みずから小説化したもの。アニメでは描かれなかった人物とドラマが織り込まれているという。アニメは見ていない。

緑の滴る東屋の絵が表紙になっている。とてもきれいだ。舞台は新宿御苑、冒頭は新宿駅の雑踏。主人公は15歳の秋月孝雄。

この少年を生みだしたことが監督の手柄だと思う。普通の男の子のようだが特別なのだ。

「普通」で思いだしたが、婚活をする男性は「普通」の女性との出会いを望むらしい。ふつうの容姿で料理がそこそこできて・・・。でもそういうひとはなかなかいないのだそうだ。つまりそういう女性は「普通」ではないのだという。

孝雄もふつうの少年だけれど、どこにでもいるような男子ではない。両親の離婚にとまどうが、自分の夢を実現すべく淡々と進んでいく。自分で決めたこと(雨の日の午前中は学校をさぼって新宿御苑に行く)を守り、家出した母に代わって家事をし、学費を貯めるためにアルバイトをする。素直で、ぶれることなく真っ直ぐだ。

新宿御苑の東屋で出会った12歳年上の美女、雪野がこの少年に惹かれていくことに納得させられてしまう。年相応の生真面目さと、ひとの気持ちに寄りそうことのできる柔らかな感受性。異性としてというよりも、浄らかな存在に出会たことの幸福を彼女は感じたのだと思う。

十話から成り、一つ一つにサブタイトルが付いている。たとえば第一話は「雨、靴擦れ、なるかみの」、第四話は「梅雨入り、遠い峰、甘い声、世界の秘密そのもの。」など。村上春樹風である。

村上春樹といえば、孝雄がバイト先で出会った中国人シャオホン(宵峰)が言うひとこと、「なにごとにも原因はある。すべては繋がっている」は村上さんが書きそうな一文だと思う。少ししか登場しないが、興味深いキャラクターだ。

しだいに明らかになる相関図、万葉集の歌が織り交ぜられて、なかなか凝った小説になっている。

とてもおもしろく読んだが、孝雄が作った靴についてはちょっと残念なように思った。爪先と本体と踵の色が違うのだ。

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