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2016年12月 2日 (金)

ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』

詩人の草野信子さんにおしえてもらったミハイル・ブルガーコフ(1891-1940)の『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫訳・河出書房新社)を読んだ。

ブルガーコフはソビエトの作家。スターリンに直接手紙を出すこともできる立場にあったのに、あからさまに体制批判をしたわけではないのに、彼の本は出版されなかった。危険な書物とみなされたのだろうか。

悪魔の一味がモスクワを混乱に陥れるというドタバタと巨匠とマルガリータの恋物語が並行して描かれている。

冒頭は作家のベルリオーズと詩人のイワンが公園でキリストの存在について話をしているところに外国人が割って入ってくるシーン。外国人は実は悪魔で、ヨシュア(キリスト)の刑死前後にその場にいたと言うが、もちろん二人は信じない。それなら、とさまざまな予言を魔法を使って現実にしていく。

作家協会の会員や劇場のお客など、権威や金に振りまわされる人間の愚かさを笑う物語になっている。ただ巨匠が書いたとされる小説はすばらしい。ローマ総督ピラトゥス(ピラト)がヨシュアの磔刑を止められなかったことを悔やんでいるという内容であるが批評家にけなされ、巨匠は精神に異常を来してしまう。

池澤夏樹さんが栞に書かれているように、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を彷彿とさせる。二男のイワンが作った劇、中世のスペインにキリストが甦り、大審問会と対決する物語だ。大審問官は神の存在は認めるが、信じない。ピラトゥスはヨシュアの起こす奇蹟を目の当たりにして、心が揺れるのだ。

マルガリータの無心の愛が巨匠を救いだす。出会いから別れ、再会まで二人の物語はこの猥雑な長編において清涼剤のようになっている。「エピローグ」として、たくさんの登場人物のその後が書かれているけれど、なくてもよいように思った。純朴なヨシュア、苦悩する頭痛持ちのピラトゥス、ヨシュアの良き弟子マタイの物語は緊張感に満ちている。ドストエフスキーに負けていない。ブルガーコフは天才にちがいない。

2016年11月27日 (日)

「詩を書こう、詩を読もう。」2016年・秋

11月19日、20日に所沢市立図書館で第17回「としょかんまつり」がひらかれ、「詩を書こう、詩を読もう。」というイベントに出た。

所沢在住の詩人、松本邦吉さんと一緒に「果物の詩」の応募作品を講評した。雨のせいか参加者が少なくて残念だったが、若いひとが数人来てくれた。近くの高校の生徒さんたちで、文芸部所属とのこと。顧問の先生もいらした。

初めて詩を書いたというが、なかなかよいものを持っていると思った。今回は「果物」がテーマということではなく、「果物」が登場する作品が応募されることを想定していた。けれどもほとんどのひとが果物を目の前にして、自身の思い出などを書いている。わたしが応募する側であったとしてもやはり果物にスポットを当てた作品を書くだろうと思う。けれども高校生のみなさんは感傷的なことを書いたりせず、果物を主役に切り口のおもしろい作品を作ってきた。

アニメや映画の影響もあるのだろうが、表現するちからを持っているように思えた。軽妙なリズムや伸びやかな想像力で一編を作りあげている。

もちろん年配の方々も推敲を重ねた作品を読ませてくれて、評者冥利に尽きると言いたい気持ちになった。

また前回に続いてご一緒してくれた松本さんの評にはうなった。「私ならこう書きます」という語り方で、ていねいなアドバイスをされたのである。

辛口になってしまうことをまず反省し、松本さんのことばに対するこだわりやタイトルの付け方のセンスを学ばせてもらった。さらに先日、文芸部顧問の先生からお礼のハガキがとどき、恐縮した。

今回は参加者の顔ぶれが変わったので、詩とは何かという説明からはじめることになった。初応募の方の作品には作文をただ行分けにしたようなものもあった。けれども、毎回何かが生まれていると思う。それが何かはまだ言うことはできないが、わたしたち詩人が詩を書くことは楽しいと伝え、書き続けてくれるように願う、この時間が、いつか優れた作品が生みだされる土壌になってくれるはずだと信じている。

2016年11月17日 (木)

福間健二監督『秋の理由』

『秋の理由』を観た。福間さんの映画はすべて観ているが、詩人の世界がそのまま映像になっていることにいつも大きな驚きを感じる。詩のことば、好きな食べ物、住んでいる街、気に入っている場所や音楽、すべて知ることができるのだ。

60代の編集者、宮本(伊藤洋三郎)が主役で、やはり60代の小説家、村岡(佐野和宏)とその妻である美咲(寺島しのぶ)が主要な人物。村岡は『秋の理由』を出した後、書くことができない不調から声が出なくなり、村岡の才能を信じる宮本は新作を本にしようと待っている。

筆談器を使って短い会話をする村岡。彼の苦悩は身体の動きと表情で表現されている。美咲の忍耐が切れるシーンに共感をおぼえた。働かない夫との会話のない生活に疲れ果てた妻は身体に村岡の手が触れた瞬間、はげしい憎悪をぶちまけ、夫を殴る。わたしが妻であっても同じことをするだろう。

翌朝、ペットボトルの水を直に飲もうとした夫にコップを手渡す仕草がとてもさりげなくて、うなった。

妖精のような存在として登場するミク(趣里)が着ている男物らしいカーキ色のジャケットと大きな靴にアシュベリーの詩「若い王子と若い王女」を連想して、いいチョイスだと思った。

こばやし食堂のオーナーシェフ役の安藤朋子さん、彼女が主役を演じる芝居を二度観たことがあり、舞台とはちがう脇の演技を見ることができた。

詩『秋の理由』のすてきなフレーズがくりかえされる。

ゆるされたと思うのは錯覚だが

この世界はいい匂いがする

自分の力でわかったことも少しはある

旅をして

長い列のうしろに並んで

キンモクセイの坂道の下

わたしは顔や手に粘りつく暗示を洗いおとして

だれかが泣いているために

秋が来たわけではないことを知った

落ち葉、どんぐり、紅葉する木々、キンモクセイ、空。秋の風景が美しい。昨年の今日クランクインしたという。一年前の国立で撮られた映画、同じ秋のなかにいることが特別なことのように思えてくる。

欲をいえば、村岡の小説『秋の理由』の内容を知りたかった。6日と30分で撮ったそうなので時間の制限ということもあったと思うけれど、おおまかなストーリーを入れてほしかった。

上映後のトークで、映画監督の城定秀夫さんが何度も「気持ちのよい映画」と言っていた。確かにそうだ。福間さんの詩の世界は風通しがよくて気持ちがよい。生きる歓びにあふれている。福間さんにずっと励まされて、わたしは今も生きて詩を書いている。

大きな収穫は「ぼくはまだ黒い芯を昂ぶらせている」の意味がわかったこと。想像していたことと違ったので、まだ少し疑っているのだけれど。帰りに思いがけず福間夫妻にご挨拶できて、よかった。

2016年11月 4日 (金)

ヒューズ兄弟監督『ザ・ウォーカー』を観る

2010年の映画『ザ・ウォーカー』を観た。テンゼル・ワシントン主演の近未来を舞台にしたアクション映画で、原題は『THE BOOK OF ELI』。

世界が崩壊した後、主人公のイーライは一冊だけ残った本を心の声にみちびかれて西へはこぶべく30年のあいだ歩きつづけている。本に触れようとする者は容赦なく切り殺す。近未来の設定なのに刃を使うのはISを連想させられて、不快な気分になった。

立ち寄ったバーで水を分けてもらうために持ち物を渡すのだが、そのなかにケンタッキーフライドチキンのおしぼりが入っていて、笑ってしまった。それで身体を拭くシーンもある。

ある町の独裁者カーネギー(ゲイリー・オールドマン)がイーライの本に目を付け、奪うためにあらゆる手段を尽くす。ゆえあってカーネギーの娘ソラーラ(ミラ・クニス)と逃げる途中で本はカーネギーの手に渡ってしまう。

それでも西へ向かうのはなぜか。それほど価値ある本とは何か。

ラストはファンタジーに近くて、もっと別の終わり方はなかったのかと思った。ソラーラの盲目の母を『フラッシュ・ダンス』のジェニファー・ビールス、修理屋を歌手のトム・ウェイツが演じていて、懐かしくうれしい気持ちになった。

実はその本をわたしは持っていて、本をモチーフにいくつかの詩を書いた。見終わって書棚から取りだし、イーライが朗読した箇所を読んでみた。

モノクロに近い風景の映像が美しく、わからないところがいくつもあるけれど、見て損はない映画だと思う。

2016年10月25日 (火)

個人誌について・「試行」のこと

個人誌を発行して30年ほどになる。個人誌とは本来は「一人の同人の原稿だけで作られた同人誌」のことだそうだが、そういうものではない。わたしは編集発行人であり、誌面は作品を発表したいひとに提供するスペースと考えている。

同人誌に対する違和感から個人誌を発行するようになった。ふつう、同人誌には巻頭言(マニフェスト)があり、共有する体験や思想がある。それに異を唱えるようなものを書くことは許されない。かなりきゅうくつである。

先日若いひとから個人誌を作る意味はあるのかという質問を受けたのだが、うまく答えることができなかった。そのひとは自分の作品をお金を出して印刷し、無料で配布することは非生産的だと考えたのだと思う。お金にならないことをなぜやっているのか、ということ。

初期の頃に詩誌を置いてくれたブティックのオーナーも売れないものをなぜ作るのかと言った。そう思うのは当然の地味な冊子である。それでもいつか何かがここから生まれるはずだと信じて疑わなかった。

個人誌は基地(ベース)のような場所だと思う。そこでこつこつと書き、依頼があれば外に出て行く。

個人誌といえば1961年に創刊された「試行」である。初めは谷川雁・村上一郎の共同編集の同人誌だったが、11号(1963年6月)から吉本の単独編集で個人誌に変わった。書庫から取りだして開くと、「報告」と題した紙片が入っていた。

この間、さまざまな状況を切抜けてきましたが、いま、確かに報告できることは、各同人が模索の段階を脱し、それぞれが〈自立〉的な発展にむかって踏みこんでゆく根拠を獲得したということであります。これを契機にして、今回、各同人は、夫々自主的な道へ発足することになりました。谷川、村上、吉本の三人を同人とする雑誌「試行」は、第十号をもって終刊いたします。

同人谷川雁は、取敢えず大正炭鉱地区での活動に専念する予定です。同人村上一郎は、厳密に構想を立てた後、個人的に文学・思想活動の雑誌を刊行する所存であります。同人吉本隆明は、雑誌「試行」を文学・思想運動の雑誌として継続刊行してゆきます。

初めて目にしたのは79年頃で、こういう冊子のやりかたもあるのだと知った。「試行」は同人誌の理想だったと思う。内容では遠く及ばないけれど、形だけでも近づきたいと思った。投稿を卒業して、作品を発表する場所を求めていくつかの同人誌に所属したものの、どこにもなじめなかった。

個人誌は基地(ベース)であり、いろいろな書き手が集まるなかで、いつか共同性や大きな才能やムーブメントが生まれてくればいい。これからもそういう気持ちをもって、わたしは詩誌を出し続けるだろうと思う。

2016年10月14日 (金)

ベルイマン『野いちご』

イングマール・ベルイマン(1918ー2007)監督の『野いちご』を観た。1957年のスウェーデン映画。60年ほど前のモノクロ作品だが、古さをまったく感じさせない。タルコフスキーが「オールタイム・ベストテン」の一本に選んだ名画である。

ストックホルムでひっそり家政婦と暮らす78歳の医師イーサクが主人公。名誉博士号を受けることになり、車で式典がひらかれるルンド大学に向かう。半日ほどの旅のあいだに起こったできごとや出会いを通じて、イーサクは死や家族について思いをめぐらす。

前夜に自分の死を暗示する夢を見たため、飛行機ではなく車で会場に向かうことにしたのだ。5分に及ぶ悪夢のシーンには台詞がなく、針のない時計や転がった棺から突きでる手など、シュールな映像が続く。

途中でむかし住んでいた屋敷に立ち寄り、思い出に浸るのだが、現在と過去が同列に描かれ、回想場面に現在のイーサク自身が登場する。当時は斬新な手法だったと思う。

若い日のフィアンセ、サーラとの破局、イーサクの無関心に耐えられなかった妻の不倫が語られる。ウディ・アレンはベルイマンの熱狂的なファンだそうだが、そういえば『アニー・ホール』は別れた恋人のアニーとの日々を主人公のアルビーが語る映画だ。ウディ・アレンの映画は台詞が多く、それとは別の心の声が字幕に出たり、ナレーションが加わったりする。わたしには賑やかというよりもうるさく感じられる。どちらかというと苦手なのだけれど、気になって観てしまう。

ベルイマンは黒澤明、フェデリコ・フェリーニと並んで二十世紀最大の巨匠と称されていて、ゴダールやトリュフォー、キューブリック、スピルバーグといった錚々たる監督たちがその影響を受けているという。

夢のなかで「あなたの罪は孤独です」と断罪されるシーンがある。けれどもイーサクは内に温かみを秘めていて、同乗した息子の嫁やヒッチハイクの若い女性に慕われていることを旅の終わりに知る。

名誉博士号を受け、今まで無関心だった周囲のひとの優しさに触れ、イーサクは生まれ変わったような穏やかな気持ちになる。老いた人間の屈辱や孤独を辛辣に描いた映画で、人生のほろ苦さをたどるロードムービーということもできると思った。

2016年9月17日 (土)

稲川方人「自転車に乗ってショッピング・モールへ」

デパ地下で買った天ぷらを食べて嘔吐した。消費期限内だったが、からっと揚がってなくて、美味しくないなあと思っていた。一緒に食べた家族は何ともなかったが、油が傷んでいたのは確か。こんなものを売る店のものは二度と食べないと心に誓った。

先日、稲川方人さんの「実践の詩学番外篇01」を読んだ。書肆子午線の「子午線通信」創刊号に載っていたエッセイである。

タイトルは「自転車に乗ってショッピング・モールへ」。B5の見ひらきに小さな活字で印刷されているのだが、句点がない!おそろしく長い一行の文章なのである。

東京最西部に住む稲川さんは自転車で周辺を走り回っているそうで、郊外にあるショッピング・モールの異様さについて書かれている。

人の少ない食品フロアのあちこちにこれでもかとうずたかく積まれた袋入りの菓子類を見るたびに「消費」と「廃棄」とは同じ意味だということを改めてまざまざと思い知らされるし、そうした「廃棄」はむろん食品に限ってはおらず、ユニクロでも無印良品でも・・・

確かに「廃棄」されるべきレベルの商品の何と多いことかと思う。安価な衣類はサイズが微妙だったり品質に問題があって1シーズンしか持たない。特売の野菜など腐っている部分が隠れるように並べてあったりする。こんなものをわたしたち庶民は購入しているのだ。言い方を変えれば、わたしたちはこういうものしか購入できない生活レベルにあって、それ以上を望むことはむずかしいということである。

「商品」は人々の手に渡された途端に「価値の終焉」を迎えることになる・・・

ショッピングモールは東京近郊に住む人間にとってはなくてはならないものだが、それは地元の個人商店が立ちゆかなくなって商店街が消えてしまったからであり、モールならよいものが手に入るから、というわけでは決してない。

資本にとっては「商品の廃棄の場」に「人=消費者の生命」はあるのだということ・・・

モールはどこも同じ店舗が入っていて、区別がつかない。品質を第一に考えた商品が並ぶ新しいショッピング・スペースはできないものだろうか。

2016年9月 3日 (土)

マッカラーズ『結婚式のメンバー』

村上春樹が訳したカーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』(新潮文庫)を読んだ。マッカラーズ(1917-1967)はアイザック・シンガーやバーナード・マラマッドなどとほぼ同世代の女性作家。

アメリカのジョージア州に住む12歳の少女フランセスが主人公。長い夏を彼女は黒人の料理女ベレニス、従兄弟のジョン・ヘンリーと台所でうだうだ過ごしている。友だちがなく、どんなサークルにも属していない。

ここを出てどこかへ行きたいと切願しているフランセスにチャンスが訪れる。兄の結婚式が遠い街でひらかれることになったのだ。兄夫婦は自分を遠いところへ連れ出してくれるに違いないと彼女は思いこむ。

マッカラーズの自伝的な物語ということで、ドラマチックなシーンは少なく、心理描写が多い。12の女の子の心理はあまり読者の好奇心をそそるものではないような気がする。

キーパーソンはベレニス。口が悪いがフランセスを娘のように思っている。何度か結婚しており、そのうちの一人に目をえぐられるという災難に遭ったが、最初の夫との思い出がベレニスのなかで豊かに脈打っている。

彼女の話がいい。兄の結婚式の後にいろいろな場所に行って、たくさんの人に会うのだと熱病のように語るフランセスにベレニスは言う。

おそらくあたしたちはみんなもっと広いところに飛び出して、自由になりたがっているんだろう。

でもそう簡単にはいかない。

あたしたちは生まれながらに閉じ込められている。そしてあたしたちはその上に、黒人としても閉じ込められているのさ。

フランセスもまたアメリカの片田舎に住む12の少女として閉じ込められている。わたしたちは一生をかけて閉じ込められた状態を脱していこうとする。生きるということはそういうことなのだ。

『結婚式のメンバー』というのは皮肉なタイトルだ。結婚式の後、兄夫婦を乗せた車に向かってフランセスは「わたしも連れてって!」と泣き叫ぶが、叶わない。

村上さんは12の女の子の心情を、うまく表現できないという彼女のもどかしさも含めて、ていねいに訳している。日本なら外に出たいと切望するのは15歳だろうかと思った。

2016年7月14日 (木)

又吉直樹『火花』

遅ればせながら又吉直樹さんの『火花』(文藝春秋)を読んだ。ていねいに人間の心理が描かれたよい小説だと思った。冒頭、熱海の花火大会で余興の漫才をするシーンは力が入りすぎて、描写に無理があるけれど、会話には勢いと切れがあり、テンポよく展開する。

20歳の徳永は4つ年上の神谷を師と思い決め、交流がはじまる。神谷には信念があり、常にひとを笑わせることを考えている。

「創作に携われる人間はどこかで共感を卒業せなあかん」「新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで」など柔らかな大阪弁で語られることばには説得力がある。

けれども神谷は世間と折り合うことができず、ふつうに生活することもできない。ひとを怒らせ裏切って借金を重ね、壊れていく。

徳永はまっとうな感性の持ち主で、神谷の才能には適うはずがないと思いながら、真摯に漫才と取り組み、少しずつ注目されるようになる。

同じライブに出ることになった神谷が本番を前にして徳永に「お客さん」と呼びかけるくだりがよかった。出番待ちの緊張感を解さなかったことを徳永は反省する。

神谷と徳永、あるいは徳永と相方の掛けあいも出てくるが、あまりおもしろくはない。ジョークを言うことは簡単だが、ひとを笑わせる芸を確立するのは難しいことなのだと改めてわかった。

思いがけないラストも含めて、全体に昭和の小説のような趣がある。又吉さんは太宰治が好きだそうだが、なるほどと思った。

今までにも芥川賞受賞作品は読んできたが、最近では出色の出来ではないだろうか。

2016年6月30日 (木)

『人のセックスを笑うな』を観た

2008年の映画『人のセックスを笑うな』(井口奈己監督)を観た。原作は山崎ナオコーラさんの小説。

タイトルは過激だけれど、19歳の学生と講師の恋愛物語で、誰かに笑われるようなことはない。

美大にリトグラフの講師としてやってきたユリ(永作博美)の自由奔放さに、みるめ(松山ケンイチ)は惹きつけられる。

モデルになってほしいと言われてユリのアトリエに行ったみるめは服を脱がされる。「触ってみたい」というのだ。ユリには父親のような夫(あがた森魚)がいる。

みるめに想いを寄せているえんちゃん(蒼井優)もかなり自由奔放で、登場人物すべてがフワフワ生きている感じだ。

俳優たちは悪くないが、ひどく手抜きの映画だと思う。群馬にある美大が舞台なのに、作品がひとつも出てこない。リトグラフの作業をするシーンがあるが、二人が製作途中の紙を眺めるばかりで、完成品は写されない。

またユリの個展シーンでも、会場にやってきたえんちゃんがお菓子を食べ続けるだけ。展示されているはずの作品は写らない。

低予算で作品が調達できなかったのか。「リトグラフ」に興味を持って見ていたので、大きな不満が残った。

日本映画を見ていると、何だか隣のひとの生活をのぞき見しているような気持ちになる。日本中どこで暮らすとしても生活レベルにあまり差がないからかもしれない。そこがおもしろいところでもあるのだが、映画の世界からすんなり日常へ戻ることができてしまうというのは何か物足りなくも思う。

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