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2016年9月17日 (土)

稲川方人「自転車に乗ってショッピング・モールへ」

デパ地下で買った天ぷらを食べて嘔吐した。消費期限内だったが、からっと揚がってなくて、美味しくないなあと思っていた。一緒に食べた家族は何ともなかったが、油が傷んでいたのは確か。こんなものを売る店のものは二度と食べないと心に誓った。

先日、稲川方人さんの「実践の詩学番外篇01」を読んだ。書肆子午線の「子午線通信」創刊号に載っていたエッセイである。

タイトルは「自転車に乗ってショッピング・モールへ」。B5の見ひらきに小さな活字で印刷されているのだが、句点がない!おそろしく長い一行の文章なのである。

東京最西部に住む稲川さんは自転車で周辺を走り回っているそうで、郊外にあるショッピング・モールの異様さについて書かれている。

人の少ない食品フロアのあちこちにこれでもかとうずたかく積まれた袋入りの菓子類を見るたびに「消費」と「廃棄」とは同じ意味だということを改めてまざまざと思い知らされるし、そうした「廃棄」はむろん食品に限ってはおらず、ユニクロでも無印良品でも・・・

確かに「廃棄」されるべきレベルの商品の何と多いことかと思う。安価な衣類はサイズが微妙だったり品質に問題があって1シーズンしか持たない。特売の野菜など腐っている部分が隠れるように並べてあったりする。こんなものをわたしたち庶民は購入しているのだ。言い方を変えれば、わたしたちはこういうものしか購入できない生活レベルにあって、それ以上を望むことはむずかしいということである。

「商品」は人々の手に渡された途端に「価値の終焉」を迎えることになる・・・

ショッピングモールは東京近郊に住む人間にとってはなくてはならないものだが、それは地元の個人商店が立ちゆかなくなって商店街が消えてしまったからであり、モールならよいものが手に入るから、というわけでは決してない。

資本にとっては「商品の廃棄の場」に「人=消費者の生命」はあるのだということ・・・

モールはどこも同じ店舗が入っていて、区別がつかない。品質を第一に考えた商品が並ぶ新しいショッピング・スペースはできないものだろうか。

2016年9月 3日 (土)

マッカラーズ『結婚式のメンバー』

村上春樹が訳したカーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』(新潮文庫)を読んだ。マッカラーズ(1917-1967)はアイザック・シンガーやバーナード・マラマッドなどとほぼ同世代の女性作家。

アメリカのジョージア州に住む12歳の少女フランセスが主人公。長い夏を彼女は黒人の料理女ベレニス、従兄弟のジョン・ヘンリーと台所でうだうだ過ごしている。友だちがなく、どんなサークルにも属していない。

ここを出てどこかへ行きたいと切願しているフランセスにチャンスが訪れる。兄の結婚式が遠い街でひらかれることになったのだ。兄夫婦は自分を遠いところへ連れ出してくれるに違いないと彼女は思いこむ。

マッカラーズの自伝的な物語ということで、ドラマチックなシーンは少なく、心理描写が多い。12の女の子の心理はあまり読者の好奇心をそそるものではないような気がする。

キーパーソンはベレニス。口が悪いがフランセスを娘のように思っている。何度か結婚しており、そのうちの一人に目をえぐられるという災難に遭ったが、最初の夫との思い出がベレニスのなかで豊かに脈打っている。

彼女の話がいい。兄の結婚式の後にいろいろな場所に行って、たくさんの人に会うのだと熱病のように語るフランセスにベレニスは言う。

おそらくあたしたちはみんなもっと広いところに飛び出して、自由になりたがっているんだろう。

でもそう簡単にはいかない。

あたしたちは生まれながらに閉じ込められている。そしてあたしたちはその上に、黒人としても閉じ込められているのさ。

フランセスもまたアメリカの片田舎に住む12の少女として閉じ込められている。わたしたちは一生をかけて閉じ込められた状態を脱していこうとする。生きるということはそういうことなのだ。

『結婚式のメンバー』というのは皮肉なタイトルだ。結婚式の後、兄夫婦を乗せた車に向かってフランセスは「わたしも連れてって!」と泣き叫ぶが、叶わない。

村上さんは12の女の子の心情を、うまく表現できないという彼女のもどかしさも含めて、ていねいに訳している。日本なら外に出たいと切望するのは15歳だろうかと思った。

2016年7月14日 (木)

又吉直樹『火花』

遅ればせながら又吉直樹さんの『火花』(文藝春秋)を読んだ。ていねいに人間の心理が描かれたよい小説だと思った。冒頭、熱海の花火大会で余興の漫才をするシーンは力が入りすぎて、描写に無理があるけれど、会話には勢いと切れがあり、テンポよく展開する。

20歳の徳永は4つ年上の神谷を師と思い決め、交流がはじまる。神谷には信念があり、常にひとを笑わせることを考えている。

「創作に携われる人間はどこかで共感を卒業せなあかん」「新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで」など柔らかな大阪弁で語られることばには説得力がある。

けれども神谷は世間と折り合うことができず、ふつうに生活することもできない。ひとを怒らせ裏切って借金を重ね、壊れていく。

徳永はまっとうな感性の持ち主で、神谷の才能には適うはずがないと思いながら、真摯に漫才と取り組み、少しずつ注目されるようになる。

同じライブに出ることになった神谷が本番を前にして徳永に「お客さん」と呼びかけるくだりがよかった。出番待ちの緊張感を解さなかったことを徳永は反省する。

神谷と徳永、あるいは徳永と相方の掛けあいも出てくるが、あまりおもしろくはない。ジョークを言うことは簡単だが、ひとを笑わせる芸を確立するのは難しいことなのだと改めてわかった。

思いがけないラストも含めて、全体に昭和の小説のような趣がある。又吉さんは太宰治が好きだそうだが、なるほどと思った。

今までにも芥川賞受賞作品は読んできたが、最近では出色の出来ではないだろうか。

2016年6月30日 (木)

『人のセックスを笑うな』を観た

2008年の映画『人のセックスを笑うな』(井口奈己監督)を観た。原作は山崎ナオコーラさんの小説。

タイトルは過激だけれど、19歳の学生と講師の恋愛物語で、誰かに笑われるようなことはない。

美大にリトグラフの講師としてやってきたユリ(永作博美)の自由奔放さに、みるめ(松山ケンイチ)は惹きつけられる。

モデルになってほしいと言われてユリのアトリエに行ったみるめは服を脱がされる。「触ってみたい」というのだ。ユリには父親のような夫(あがた森魚)がいる。

みるめに想いを寄せているえんちゃん(蒼井優)もかなり自由奔放で、登場人物すべてがフワフワ生きている感じだ。

俳優たちは悪くないが、ひどく手抜きの映画だと思う。群馬にある美大が舞台なのに、作品がひとつも出てこない。リトグラフの作業をするシーンがあるが、二人が製作途中の紙を眺めるばかりで、完成品は写されない。

またユリの個展シーンでも、会場にやってきたえんちゃんがお菓子を食べ続けるだけ。展示されているはずの作品は写らない。

低予算で作品が調達できなかったのか。「リトグラフ」に興味を持って見ていたので、大きな不満が残った。

日本映画を見ていると、何だか隣のひとの生活をのぞき見しているような気持ちになる。日本中どこで暮らすとしても生活レベルにあまり差がないからかもしれない。そこがおもしろいところでもあるのだが、映画の世界からすんなり日常へ戻ることができてしまうというのは何か物足りなくも思う。

2016年6月14日 (火)

『世界一美しい本を作る男』

昨年、映画館で見逃した『世界一美しい本を作る男~シュタイデルとの旅』を観た。

ドイツに世界最高峰といわれる小さな出版社がある。1950年生まれのゲルハルト・シュタイデルが経営するシュタイデル社と印刷所。42人の社員で年間200冊の本を作る。

ノーベル賞受賞作家のギュンター・グラスやアメリカの著名な写真家ロバート・フランク、シャネルのカリスマ・デザイナーであるカール・ラガーフェルドなど天才アーティストと一対一で本を作り、世界中にここの本のコレクターがいる。

上質の紙とインクを使った本はよい匂いがするという。そのすばらしさは実際に手に取らなければわからないのだろう。写真集の場合、300部でも500部でも制作費は1200万ドル(1200万円)だそうだ。

打ち合わせをするためにシュタイデルは旅をする。アメリカ、ドバイ、パリ。会って話せば数か月かかることが4日で済むという。収録作品の選定の段階からアーティストと同じ目線でつきあっていく。

シュタイデルは家族がなく趣味もない根っからの仕事人間で、そのストイックさが仕事にもあらわれている。

ドバイの富豪が登場する。スマホで撮ったものを本にしていくプロセスが語られる。シュタイデルは内容にふさわしい判型と装幀を提案する。めったに使わない悪趣味ともいえる色の紙、裏表紙いっぱいに印刷されたゴールドのバーコード。かなり強引に富豪のOKを取り、印刷に入る。色違いの、ど派手なミニサイズの本ができあがり、富豪は満足そうだった。

22歳のときに一緒に仕事をしたヨーゼフ・ボイスを師と仰ぐ。ボイスと出会ったことで、自分はアーティストの手助けをする技術屋になろうと決意したのだそうだ。

わたしは数年前に横須賀でボイスの小さな展覧会を観た。メッセージ性の強い挑発的なオブジェが多かったが、繊細さには際立つものを感じた。ボイスと世界一美しい本を作る男のつながりは不思議なことに思われる。

シュタイデル社の本、どうしたら手に入れることができるのだろう。

DVDは『考える人』編集部/テレビマンユニオン編(新潮社発行)、訪問記とインタビューが本になっている。アーティストのための宿泊施設もある社内や専属シェフが作るランチの写真も載っていて、愉しめます。

2016年5月27日 (金)

タルコフスキー『ノスタルジア』

アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』(1983年)を観た。聞きしにまさる難解な映画である。『サクリファイス』よりもメッセージが弱く、プライベートな部分がより強く出ていると思った。

最初に登場する美女の存在に惑わされた感じ。意味深な話をするので、主人公の愛人だろうと思っていたら通訳だった。主人公アンドレイが自分を求めないことに怒るのだが、何だか腑に落ちない。

タルコフスキー自身と思われる主人公アンドレイは18世紀ロシアの音楽家サスコフスキーの足跡を追うためにイタリアのトスカーナにやってきた。風景がイタリアらしく見えないのはなぜだろう。全体に明るさが足りないように思える。アンドレイは旅の途上で余命がわずかであることを知るのだが、彼の沈痛な気持ちを表しているように思える。

アンドレイはドメニコという男と知り合い、住まいを訪ねていく。ドメニコはもうじき世界の終末が来ると信じて家族を七年のあいだ家に閉じ込め狂人扱いされて、今はひとり廃屋に暮らしている。

ドメニコは自分の代わりに火のついたロウソクを持って温泉を渡ってほしいと頼む。火を消さずに渡りきることが世界の救済につながると信じているのだ。

ドメニコの記憶がアンドレイのものになり、二人の記憶は溶け合っていく。グレー一色の廃屋のシーンが美しい。

水が全編にあふれている。廃屋に絶え間なく漏れている水、温泉、犬が遊ぶ沼、廃墟にある池。

アンドレイはその池で本を燃やす。タイトルは『アルセニー・タルコフスキー詩集』。監督の父の作品だろうか。家族を捨てた父親への恨みを表現しているのだと思う。

帰国を延期して、アンドレイはドメニコとの約束を果たす。ロウソクを持って枯れた温泉を渡る。手や服で風をさえぎって歩く。死期の迫ったアンドレイの切実な気持ちが伝わってくるシーンである。

若い妻とスカーフを被った母親、沼辺に寝そべる犬とアンドレイ、背後に立つ家はすべてモノクロ。カメラが引いていき、壁画のある建築物が映される。過去はモノクロ、現在はカラーの映像になっていて、過去が現在のなかに嵌めこまれているとわかる。

タルコフスキーは映画制作のためにロシアを出国し、完成後に亡命したという。母国との訣別を決意した上で制作された映画なのだろう。すべてのシーンが悲痛なほどの美しさに満ちている。

タルコフスキーは1986年に54歳で亡くなったが、2015年に未完のシナリオにして小説『ホフマニアーナ』がエクリより刊行された。美しい銅版画の入った幻想的な作品である。

2016年5月19日 (木)

イアン・マキューアン『未成年』

詩人の相沢正一郎さんが薦めてくださったイアン・マキューアンの『未成年』(村松潔訳・新潮クレストブックス)を読んだ。すばらしい小説である。

主人公は59歳の裁判官フィオーナ。魅力的な夫と豪奢なフラットに住み、仕事の評価も高い。

仕事と家庭、ほぼ同時に問題が起こる。夫が若い女性との肉体関係を認めてほしいというのだ。

また信仰のために輸血を拒否する白血病の少年と、輸血の許可を求める病院との対立の早急な判決を求められる。

17歳の少年アンリと両親はエホバの証人の信者。アンリは聡明であるけれど、死については信仰に殉じる選択しかないと思っている。フィオーナは病院でアンリに面会し、少年の生を第一として、輸血を許可する。

さまざまな案件に対する彼女の務めは、何が合法で理にかなっているかを判断すること。過去の事例を挙げながら判決を導きだし、法廷の質疑応答を通して論理が展開されるように書かれていて、読み応えがあり、マキューアンの力量を感じた。

アンリは命を救ってくれた女性裁判官に惹かれ、フィオーナは聡明な少年に興味を持つが、立場上、無視するしかない。

シャンパン、シルクのドレス、法曹院のパーティ、ピアノ演奏、ローマでのキース・ジャレット・コンサートなどが登場するスタイリッシュな小説で、簡潔な文体が美しい。

アンリの弾くヴァイオリンに合わせてフィオーナが歌ったり、彼がストーカーのような行動を取り、詩を送ってくるなど、アンリの登場するシーンがロマンチックに過ぎるのが少し気になった。

悲劇的なラストまで緊張感のある展開が続き、上質の小説を読む愉みを味わった。

2016年4月21日 (木)

スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』と村上春樹

スティーヴン・ミルハウザーの短編集『ナイフ投げ師』(柴田元幸訳・白水社・2008年)を読む。表題作はかなり話題になったのだが、好き嫌いが分かれるかもしれない。わたしはいちばん異質と思われる「出口」に惹かれた。

短編集や詩集を読むとき、その作家や詩人らしさの薄い作品から入ることが多い。ミルハウザーは独自な世界を構築する作家で、この一冊は遊園地が主な舞台になっている。見世物小屋や人形劇場など、「からくり」がテーマといってもいい。

それらとまったく趣が異なるのが「出口」。主人公はコミュニティ・カレッジで歴史を教えている30歳の男性、ハーター。人妻マーサの家で密会中に帰ってきた夫と遭遇する。ハーターは好青年で女好き、つきあいはじめると相手の欠点ばかり気になって目移りするようなタイプである。

ドアの前で硬直した小柄な夫を残して帰宅したハーターは、これはたいしたことではないと思いこもうとするが、翌朝夫の友人という二人の男がやってきて・・・というストーリー。

男たちの威圧的な態度と慇懃さが恐怖を誘うのだが、こういうシーンをどこかで読んだことがある。村上春樹の『羊をめぐる冒険』(1985年)だ。主人公の勤務する会社にやってくる無表情な、一方的に話をする男。また『スプートニクの恋人』(1999年)には人妻(教え子の母)と関係を持つ若い男が登場する。

ハーターは小柄な夫と決闘することになるのだが、理由のわからないラストには村上の短編「眠り」を連想させるものがあるように思う。

「眠り」は不眠症になった若い主婦が夜中に小説を読み耽る話。ある夜、衝動的に車で公園に行くと、駐車している車の窓を何者かに叩かれ、車体が揺らされる。主婦はパニックに陥る。ハーターもまた理不尽な恐怖の底に落とされるのである。

1980年後半からアメリカの短編と村上春樹の小説を並行するように読んでいる。どちらが先に書かれたか、どちらの影響を受けたかというようなことは問題ではない。この時代にアメリカでも日本でも優れた作品が生み出されたということに改めて興味を持った。

2016年3月30日 (水)

国立新美術館でフォートリエとポロックを見る

初めて六本木の国立新美術館へ行った。4月4日までひらかれている『はじまり、美の饗宴展 すばらしき大原美術館コレクション』でフォートリエの「雨」を見るためである。

15年ほど前に竹橋の近代美術館で「雨」を見た。以前もらったポストカードがすばらしく、本物をこの眼で確かめたいと思った。上空から見た緑の島に雨が斜めに降っている。「島」ではなく「雨」というタイトルもすてきだ。

一昨年には丸の内ステーション・ギャラリーで初の回顧展がひらかれたが、「雨」はなかった。

新美術館は黒川紀章さんが設計された最後の建築物で、2007年にオープンした。開放的な広い空間が気持ちよく、大きな展覧会が複数同時に開かれている。

コレクションの展示はほとんど素通りして、「雨」の前に立った。意外なことに見ているひとはいない。それで、いろいろな角度から眺めることができた。

照明のせいか緑色が単純に感じられた。ポストカードの方がニュアンスがあって美しいかもしれない。フォートリエは筆で描くのではなく、ペインティング・ナイフで絵の具を盛りあげ、工芸作品のように制作した。たっぷりとした質感は実物でなければわからない。触りたいなあ。となりには有名な「人質」。月のようなクリーム色の頭部の絵である。

次の部屋にはジャクソン・ポロックの「カット・アウト」があった。興味を持っている画家のひとりなので、小躍りした。アメリカ抽象表現主義の巨匠である。絵のまんなかをヒト型に切り抜き、白くなった部分をどうしようかと思案中に車の事故で亡くなってしまったため、画家である奥さん(リー・クラズナー)が裏から絵を貼りつけて完成させたという説明があった。おもしろい話である。

ポロックはキャンバスを床(地面)に置いて、絵の具(ペンキ)を垂らしたりぶちまけたりして描いた。作品は大胆にして繊細。汚いと思うひともいるようだが、わたしは洗練されていると感じる。

ポロックの作品については画集よりも映像の方が深みがあると思った。実物と映像、印刷物。少しずつ違うけれど、まず実物を見ること。本物と対峙する緊張感は何ものにも代えがたい。

一枚の絵を見るために美術館に足をはこぶ。そうすれば新たに自分にとって特別な作品に出会うこともある。美術館へ行く愉しみを味わうことができた一日だった。

2016年3月24日 (木)

『ゴールデンスランバー』は怖い映画だ

『ゴールデンスランバー』(2009年・中村義洋監督)を見た。伊坂幸太郎のベストセラー小説が原作のエンターテイメント映画である。

暗殺犯の濡れ衣を着せられて、ひたすら逃げる男の二日間が描かれる。舞台は仙台で、首相のパレードが催されている。青柳雅春(堺雅人)は大学時代の親友である森田(吉岡秀隆)に呼び出され、車中で「おまえ、オズワルドにされるぞ」と言われた直後に首相の車が爆破される。

「どんなにみっともなくても逃げろ」ということばを残して、森田の車も爆発する。何だかわからないまま追われる羽目になった青柳。

実直な彼は誰にでも好かれ、大学サークルの仲間や連続殺人犯(濱田岳)に助けられて、「人間の最大の武器は信頼だ」と言いながら逃亡を続ける。

何か大きな組織がダミーの人間に整形をさせ、青柳に似た容疑者の映像を流す。青柳は数年前にアイドルを暴漢から救ったことで地元では有名になっていて、それが犯人に仕立てられたことと関係があるのかどうか気になった。

ドン・デリーロの『リブラ 時の秤』を思いだした。ケネディ暗殺犯のジミー・オズワルドを主役に長編小説である。登場人物それぞれの日常をていねいに描くことで圧倒的なリアリティを感じさせる傑作である。オズワルドは国家レベルで暗殺犯に仕立てられた人物といわれている。

いくつも張られた伏線がシャッフルされて明らかになる映像がとてもよかった。でもなぜ青柳が犯人に仕立てられることになったのか。原作を読めばわかるようなので、『ゴールデンスランバー』を購入した。

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