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2017年5月21日 (日)

「詩客」時評 

「詩客」というサイトで時評を担当することになった。第一回がアップされている。タイトルは「詩を二つに分けるもの 〈感性の秩序〉ということ」。

今年に入ってとどいた詩誌「栞」5号、発行人の山岸光人さんが書いているエッセイ「詩集を読んで70年代を振りかえる・・・」について触れている。

取りあげられているのは松下育男さんと菊池千里さんの詩集。山岸さんは松下さんの詩集に対する当時の批判を引用していて、そのなかの瀬尾育生さんの文章(『現代詩手帖』1980年の詩時評)に「この世界の感性の秩序」ということばがあった。

昨年わたしは菅野覚明さんの『詩人の叡智 吉本隆明』をおもしろく読んだのだが、そこにも「感性の秩序」ということばがあり、吉本さんが使われたことばなのだろうと著作集をひらいたところ「『四季派』の本質」に出ていた。

菅野さんはこのことばを「芸」としての詩について語る部分に使っている。

「感性の秩序」とは何か。興味のある方はぜひお立ち寄りください。

http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/1d8bfc89ff6a0c80a2124fb2f304ee32

2017年5月11日 (木)

N響のチャイコフスキー

5月3日、上野文化会館でN響のコンサートを聴いた。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ短調op.35と交響曲第5番ホ短調op.64。

指揮はロベルト・フォレス・ヴェセス。巨匠チャイコフスキーの音楽はポピュラーに過ぎるし、期待していなかったのだが、これが大違い。心揺さぶられた。

3階席で残念ながら顔は見えなかったけれど、バレンシア出身の若い指揮者の動きに釘付けになった。細いからだ全体を使ってアグレッシブで繊細な音楽をつくっていた。N響のひとたちもそれに応え、少しずつ演奏に一体感が生まれていくのがわかった。

あたりまえだが、Eテレで見るN響の演奏とはまったく違う。生演奏にはテレビやCDを聴いているときには味わえない礫のような音の勢いを感じる。ソロの楽器を演奏しているひとを探す愉しみもある。

協奏曲のソロは大江馨さん。1994年生まれの気鋭のヴァイオリニストで、軽やかで深い音を奏でていた。ベテランの円熟した演奏もよいけれど、歯切れのよいヴァイオリンがチャイコフスキーの音楽に新風を吹きこんだと思った。

音楽については素人なので、感想を書こうとすると慣用的な表現ばかりになってしまい、我ながら情けないのだが、万雷の拍手だった。

チャイコフスキーの音楽を聴いて涙が出ることがあるなんて思わなかった。指揮者のちからを感じた一日。谷中を抜けて日暮里まで歩くあいだ満たされた気持ちに浸りました。

2017年4月19日 (水)

おぞましい小説

イアン・マキューアンの『セメント・ガーデン』(宮脇孝雄訳・早川書房)を読んだ。イギリスで手練れと称されるベストセラー作家の長編第一作。1978年に発表され、日本では2000年に刊行されている。

15歳の少年ジャックが語り手。両親が死んで残された四人兄弟は離ればなれにされることを怖れ、親の死を隠蔽するため、死体をコンクリート詰めにする。

子どもだけの生活がはじまる。姉のジュリーはボーイフレンドと遊びまわり、二女のスーは部屋にこもり、末っ子のトムは女の子の格好をし、ジャックは自慰行為にふける。

母親をコンクリート詰めにした秘密と日々をやり過ごすことが兄弟の共有するもので、それぞれが未来を夢見ることもない。

ジュリーのボーイフレンドが秘密に気づき、さらにジュリーとジャックの近親相姦の現場を目撃してしまう。

姉と弟が性交する展開には驚いた。二人は仲が悪いという設定だし、そこに至る伏線もない。傍には乳児返りをした弟もいて、おぞましい光景以外の何ものでもない。

ブッカー賞の候補になったらしいが、感動させられるような台詞もシーンもなく、四人のうちの誰にも感情移入ができない。

小説には〈救い〉がなければならないと思う。この小説を読んでいるあいだ、ずっと不快感が消えなかった。ここから宗教と大人の恋愛を扱った優れた小説『未成年』(2015年)に辿りついたのだ。やはりすごい作家にちがいない。

2017年4月15日 (土)

『言の葉の庭』を読む

新海誠さんの小説『言の葉の庭』(角川文庫)を読んだ。劇場アニメーションを監督みずから小説化したもの。アニメでは描かれなかった人物とドラマが織り込まれているという。アニメは見ていない。

緑の滴る東屋の絵が表紙になっている。とてもきれいだ。舞台は新宿御苑、冒頭は新宿駅の雑踏。主人公は15歳の秋月孝雄。

この少年を生みだしたことが監督の手柄だと思う。普通の男の子のようだが特別なのだ。

「普通」で思いだしたが、婚活をする男性は「普通」の女性との出会いを望むらしい。ふつうの容姿で料理がそこそこできて・・・。でもそういうひとはなかなかいないのだそうだ。つまりそういう女性は「普通」ではないのだという。

孝雄もふつうの少年だけれど、どこにでもいるような男子ではない。両親の離婚にとまどうが、自分の夢を実現すべく淡々と進んでいく。自分で決めたこと(雨の日の午前中は学校をさぼって新宿御苑に行く)を守り、家出した母に代わって家事をし、学費を貯めるためにアルバイトをする。素直で、ぶれることなく真っ直ぐだ。

新宿御苑の東屋で出会った12歳年上の美女、雪野がこの少年に惹かれていくことに納得させられてしまう。年相応の生真面目さと、ひとの気持ちに寄りそうことのできる柔らかな感受性。異性としてというよりも、浄らかな存在に出会たことの幸福を彼女は感じたのだと思う。

十話から成り、一つ一つにサブタイトルが付いている。たとえば第一話は「雨、靴擦れ、なるかみの」、第四話は「梅雨入り、遠い峰、甘い声、世界の秘密そのもの。」など。村上春樹風である。

村上春樹といえば、孝雄がバイト先で出会った中国人シャオホン(宵峰)が言うひとこと、「なにごとにも原因はある。すべては繋がっている」は村上さんが書きそうな一文だと思う。少ししか登場しないが、興味深いキャラクターだ。

しだいに明らかになる相関図、万葉集の歌が織り交ぜられて、なかなか凝った小説になっている。

とてもおもしろく読んだが、孝雄が作った靴についてはちょっと残念なように思った。爪先と本体と踵の色が違うのだ。

2017年4月11日 (火)

カフカの短編を読む

カフカの『掟の門前』を読んだ。「門番」が登場する。以前、番人が出てくる詩を書いたとき、詩人のIさんからこの短編を連想したという手紙をもらった。今回は倉田比羽子さんの「(丘の向こう)」という長詩に門番が登場するので、再読した。

田舎から来た男が「掟の門前」で大男の門番に「入れてくれ」と言うが、拒否される。掟の門は誰にもひらかれていると思っていたが、「部屋ごとに一人ずつ力持ちの番人がいる」と聞いて待つことにする。

長い年月が経ち、死ぬまぎわに男は「どうして自分の他に中に入れてくれと言ってこなかったのか」と門番に訊ねる。

「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門はおまえひとりのためのものだった」。

カミユの『シーシュポスの神話』に通じる不条理の物語だ。掟を破って門をくぐるという選択が正しかったのかと読者に考えさせる、優れた作品である。

もう一つ、やはり『変身』は別格の出来である。あまりにも有名なので、あらすじを説明するまでもないが、ひとことで言うと朝起きたら甲虫に変身していたグレーゴルという男の話。でもまだその先がある。

息子であり兄であった虫の死をきっかけに家族が再生するのだ。この結末には驚いた。両親と妹は虫のために陥った不幸な状態が終わったことを喜び、それぞれ新しい生活を始める。グレーゴルの悲劇が家族の未来をひらき、ハッピーエンドで終わる。

カフカはこれを書きあげた直後に友人たちの前に朗読し、ときおり吹きだして、中断しなくてはならなかったという。

テレビもラジオもなく、本の出版にも時間がかかった時代、作家にとって朗読会は新作を発表する、よい機会であっただろう。また人びとにとっても数少ない娯楽の時間だったと思う。

カフカは人びとに楽しんでもらうため、ストーリー性があり、ユーモアに富み、思いがけない展開をする物語を書いたのではないだろうか。

孤独のなかでひたすら書いたのではなく、人びとの反応を見ながら作品を作りあげていったのだと思った。

2017年4月 1日 (土)

イアン・マキューアン『愛の続き』

イアン・マキューアンの『愛の続き』(小山太一訳・新潮社)を読んだ。小説家は基本的に粘着気質だが、マキューアンも例外ではない。

冒頭は気球事故のシーン。子どもを乗せて暴走する気球を数人の男が止めようとし、一人が死ぬ。死体に駆けよった中年の「ぼく」(ジョー)に愛のサインを送られたと感じる二十代のジェイク。

ジョーは自分を愛しているが素直に応えることができないと信じるジェイク、また無神論者のジョーを自分の力で神に近づけなければならないと思い込み、ジェイクはストーカー行為をはじめる。

ストーカーの心理状態を説明するために「ド・クレランボー症候群」の症例が巻末に詳しく記されている。相手を神のように崇める強迫的な愛は、手ひどく拒否されると怒りから殺意に変わっていくのだそうだ。

しばしば世間を騒がすストーカー事件、容疑者は多くのばあい男性である。男性の方が女性より妄想が強いということがあるだろう。ふくれあがった妄想とズタズタになったプライドは相手を消してしまわなければ収まらない。そこで殺人ということになる。

ジョ-は著名な科学ライターでパートナーのクラリッサは文学部の教授という設定。科学雑誌に掲載された記事やキーツの詩について。マキューアンはこの作品でも徹底的にリサーチをして、物語にリアリティを与えている。

ジェイクはジョーのアパートの前で待ち続け、外出するジョーの後をつける。独りよがりな解釈を長々と綴ったジェイクの手紙にはちょっと辟易した。

気球事故、事故で死亡した男の妻が抱える疑念、ジョーが陥る恐怖と狂気。伏線は最後にすべて回収され、ハッピーエンドで終わるのだけれど、シチュエーションにも展開にもやや不自然なところがあり、読み終えるのに体力の要る小説だった。

2017年3月20日 (月)

イアン・マキューアン『アムステルダム』

イアン・マキューアンの『アムステルダム』(小山太一訳・新潮社)を読んだ。2014年に刊行された『未成年』がすばらしかったので、この作家の作品をもっと読んでみたいと思っていた。

これは1999年にブッカー賞を受賞した作品。マキューアンは1948年イギリス生まれ。洗練された文章とありえない設定、ジェットコースター的な展開に驚かされた。

葬儀のシーンから始まる。魅力的な才人モリーが四十代の若さで痴呆死し、元恋人の三人が葬儀に参列する。

作曲家と新聞の編集長、外務大臣。モリーが生前に撮った写真が彼らの人生を狂わせる。

マエストロと呼ばれるクライヴ、遣り手の編集長ヴァーノン、首相候補のガーモニー。仕事に成功した中年男の愚かさ、それぞれの思惑の交錯を描く手腕に唸った。

モリーの夫がガーモニーのスキャンダル写真をヴァーノンに託し、ヴァーノンは新聞に掲載することを決める。反対するクライヴ。事前にそのことを知って、もみ消しを図るガーモニー。

マキューアンは新聞社の内幕と音楽界の内情を描くことで、作品に圧倒的なリアリティをもたらした。交響曲を作ることがどのようなものであるかということも知ることができた。

著者のインタビューにも触れた訳者のあとがきもよかった。タイトルの由来がわかる。また、「man of the world」ということばを初めて知った。「ちゃんと社会に適応していて、社会のちょっとした不正には目をつぶるだけの度量のある人物」ということだという。イギリス的ですね。

小説好きな方にぜひ読んでほしい長編である。

2017年3月 9日 (木)

『騎士団長殺し』を読む

村上春樹さんの『騎士団長殺し』を読んだ。村上さんが類い希なストーリーテラーであり、進化を続けていることを改めて思い知らされた。

冒頭に顔のない男が出てくる。ルネ・マグリットの絵画を連想した。鳩の輪郭のなかに雲が浮かんでいる絵が有名だが、顔にあるべきパーツの代わりに果物などが描かれたものも多い。

まだ感想がまとまらないのだけれど、『東京奇譚集』(2005年・新潮社)のなかのいくつかの短編を思いだして、再読してみた。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」はマンションの階段を降りる間に失踪した男を捜す「私」の話。男の妻の依頼でマンションの階段を何度も上り下りし、そこで会った住民とどうでもいいような話をする。手がかりはない。20日後に仙台駅で一時的に記憶喪失になった男が見つかる。

「私」は完璧に削った鉛筆を机に並べている。依頼した女は先の尖ったヒールをはいている。そういう細部がわたしの記憶に残っていた。

何も起こらないことをいかに書くかという習作のようでもある。村上さんがパンケーキやドーナッツについて書くと、何か特別なことのように思えて食欲がそそられる。

また、「日々移動する腎臓のかたちをした石」は小説家が書いている作品のなかに登場する石のこと。部屋のなかにある石は勝手に動いているらしく、置き場所が変わっている。

つまり「どこであれ・・・」は『騎士団長殺し』の主人公のテレポートのような移動、「日々・・・」は穴のなかにあった古い鈴のヒントになったのだと思われる。

村上春樹は過去に書いた短編を変貌させて、大きな物語を作ったのだろう。短編としては淡い内容の作品もそのままでは終わらせない。さすがである。

その手法を何とか詩作に取り入れることができないものだろうか。やっていないこともないけれど、一般に詩はエンタテイメント性が薄いから読まれない、気づかれないことになってしまているような気がする。

『騎士団長殺し』の感想についてはまた後日書きたいと思います。

2017年2月24日 (金)

「雨期」68号

「雨期」68号ができました。表紙は久しぶりの白抜き(反転)。ラベンダー色です。

詩の執筆は古内美也子・原口哲也・唐作桂子・谷合吉重・青木津奈江・君野隆久・須永紀子。

アンケートは「記憶に残る美術展」で原口・青木・谷合・北野英昭・須永が書いています。

須永の「詩の未来を考える」2は前号に続いて倉田比羽子さんの詩集『世界の優しい無関心』の表題作について。いうまでもなくカミュの小説『異邦人』から着想を得て書かれています。今回、くりかえし小説を読み、今まで漫然と読んでいたことに気づきました。

倉田さんにたくさん質問をし、ていねいなお答えをいただきました。感謝です。

論考を書くことになるなんて思いもしなかったし、うまくいったとはとてもいえない出来ですが、何とかまとめることができてよかった。続きも書く予定です。

須永の短編日記はブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、津島佑子さんの『笑いオオカミ』、乙一さんの『暗いところで待ち合わせ』を取りあげています。

今回はあまり小説を読むことができなかったのですが、きょうから村上春樹さんの『騎士団長殺し』をひらきます。

その前に難航している詩をしあげなくてはならなかった。締め切りまであと5日。

2017年2月20日 (月)

カッサンドル・ポスター展

埼玉近代美術館で「カッサンドル・ポスター展 グラフィズムの革命」を見た。http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=336

カッサンドル(1901-1968)はウクライナに生まれ、フランスで活躍した20世紀を代表するグラフィックデザイナー。

カッサンドルはフランス人だが、ロシア・アバンギャルドを連想させるようなポスターがほとんど。幾何学的でダイナミックではあるけれど、暗い色調で、ポスターとしてどうなのだろうと思ってしまった。

「グラフィックデザインとは単なるコミュニケーションにすぎず、夢を追うようなものではない」と割り切って仕事をした。家具店の宣伝のために描いたポスターが話題になってグランプリを受賞したという。

横長の紙に黄色と黒、赤という強烈な色を使って大木を伐る男性を描いたもので、タイトルは「きこり」。有名な建築家のコルビュジエが酷評したと説明があった。さすがコルビュジエ。賛成です。何だか社会主義リアリズムの絵画に見える。

それでもポスター・デザイナーとして高評価を得て、ワインや化粧品、船舶や鉄道のポスターなどを次々と手がけた。アメリカのファッション誌「ハーパーズ・バザー」の表紙を依頼されたりしている。

画家のバルテュスと出会い、絵を描こうとするがうまくいかない。その間ずっとタイポグラフィに興味を持ち、文字のデザインもいくつかしている。

晩年の仕事として展示されているのがエリック・サティやモーツァルトのレコードジャケット。文字だけのものがほとんどなのだが、シンプルで美しい。

もしかしたらレコードジャケットが最高の作品かもしれない。

カッサンドルというポスター画家の不運をあらわしたような展覧会であるようにも思える。ロシア美術に興味があるひとにはおもしろいのではないだろうか。

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