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2017年2月24日 (金)

「雨期」68号

「雨期」68号ができました。表紙は久しぶりの白抜き(反転)。ラベンダー色です。

詩の執筆は古内美也子・原口哲也・唐作桂子・谷合吉重・青木津奈江・君野隆久・須永紀子。

アンケートは「記憶に残る美術展」で原口・青木・谷合・北野英昭・須永が書いています。

須永の「詩の未来を考える」2は前号に続いて倉田比羽子さんの詩集『世界の優しい無関心』の表題作について。いうまでもなくカミュの小説『異邦人』から着想を得て書かれています。今回、くりかえし小説を読み、今まで漫然と読んでいたことに気づきました。

倉田さんにたくさん質問をし、ていねいなお答えをいただきました。感謝です。

論考を書くことになるなんて思いもしなかったし、うまくいったとはとてもいえない出来ですが、何とかまとめることができてよかった。続きも書く予定です。

須永の短編日記はブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、津島佑子さんの『笑いオオカミ』、乙一さんの『暗いところで待ち合わせ』を取りあげています。

今回はあまり小説を読むことができなかったのですが、きょうから村上春樹さんの『騎士団長殺し』をひらきます。

その前に難航している詩をしあげなくてはならなかった。締め切りまであと5日。

2017年2月20日 (月)

カッサンドル・ポスター展

埼玉近代美術館で「カッサンドル・ポスター展 グラフィズムの革命」を見た。http://www.pref.spec.ed.jp/momas/?page_id=336

カッサンドル(1901-1968)はウクライナに生まれ、フランスで活躍した20世紀を代表するグラフィックデザイナー。

カッサンドルはフランス人だが、ロシア・アバンギャルドを連想させるようなポスターがほとんど。幾何学的でダイナミックではあるけれど、暗い色調で、ポスターとしてどうなのだろうと思ってしまった。

「グラフィックデザインとは単なるコミュニケーションにすぎず、夢を追うようなものではない」と割り切って仕事をした。家具店の宣伝のために描いたポスターが話題になってグランプリを受賞したという。

横長の紙に黄色と黒、赤という強烈な色を使って大木を伐る男性を描いたもので、タイトルは「きこり」。有名な建築家のコルビュジエが酷評したと説明があった。さすがコルビュジエ。賛成です。何だか社会主義リアリズムの絵画に見える。

それでもポスター・デザイナーとして高評価を得て、ワインや化粧品、船舶や鉄道のポスターなどを次々と手がけた。アメリカのファッション誌「ハーパーズ・バザー」の表紙を依頼されたりしている。

画家のバルテュスと出会い、絵を描こうとするがうまくいかない。その間ずっとタイポグラフィに興味を持ち、文字のデザインもいくつかしている。

晩年の仕事として展示されているのがエリック・サティやモーツァルトのレコードジャケット。文字だけのものがほとんどなのだが、シンプルで美しい。

もしかしたらレコードジャケットが最高の作品かもしれない。

カッサンドルというポスター画家の不運をあらわしたような展覧会であるようにも思える。ロシア美術に興味があるひとにはおもしろいのではないだろうか。

2017年2月14日 (火)

美味しい鍋ベスト3

原稿を書き終わり、編集作業も終わったので、ブレイクタイム。うちでよく作る鍋について書いてみます。

オリジナルではないので、作り方は大まか、分量は省略です。高い食材は使いません。

 

1位 真鱈とアサリのみそ鍋

真鱈は塩をふってしばらく置き、水分を拭きとる。アサリは砂抜きする。下処理が大切。

昆布の上にアサリをのせ、酒をふって蓋をし、アサリの口がひらいたら、水(だし)を入れる。

最後に白子を入れるとグッドです。これも洗って、さっと数十秒ほど湯通し。

お豆腐か生揚げ、水菜が合います。あとはお好みのきのこを。

 

2位 鶏挽き肉のつみれ鍋

鶏モモの挽き肉、タコを粗みじんに切ったもの、ネギとショウガをみじん切りにしたものと片栗粉をこねて作ったつみれ(お団子)を入れた鍋。

タコの食感がよい感じ。水菜と豆腐、きのこ、ポン酢で。

 

3位 真鱈とカキのみそ鍋

真鱈は塩をふり、カキはきれいに洗って水気を拭き、片栗粉をつけて表面をさっと焼く。

他の具材が煮えたところに、鱈と牡蠣を入れます。

鱈もカキもプリプリです。白滝、白菜、豆腐、きのこなど。

ぜひお試しください。

 

2017年1月31日 (火)

ヴィオラ・ダ・ガンバでバッハを

雑司が谷音楽堂で「プレリュードとフーガ」を聞いた。サブタイトルは「ヴィオラ・ダ・ガンバでバッハを」。

ヴィオラ・ダ・ガンバは擦弦楽器。チェロに似ているが支え棒がなく、両脚ではさむようにして弾くので「ガンバ」(足)と名が付いている。

チェロは弦が4本、ヴィオラ・ダ・ガンバは6本から7本で、ギターのようにフレットがある。チェロの本体に刻まれているのは「f」で、ヴィオラ・ダ・ガンバは「c」なのだそう。18世紀に廃れ、19世紀末以来の古楽復興運動によって復活した古楽器だ。

音楽堂は小さな教会のような空間で、演奏者と観客の距離が近い。クラシックのコンサートは広いホールで聴くことが多く、演奏者の顔が見えないこともある。

3本のヴィオラ・ダ・ガンバは小さな順にソプラノ、テノール、バスで、今回はチェンバロが加わった。チェンバロも古楽器の一つ。18世紀にピアノの興隆によって影が薄くなったというが、繊細で華やかな音を愛するひとは多いと思う。ピアノとちがって音が伸びないため、ストイックな感じがある。バッハの音楽にふさわしい楽器だと思う。

プログラムには演奏者の紹介とともに、楽器の制作者と制作年が記されている。高価なものなのだろう。

プレリュードとフーガは『平均律クラヴィーア』のなかのものが多く、毎日のようにバッハの『マタイ受難曲』を聞いているけれど、『クラヴィーア』は初めて。

バッハはたくさんの名曲を作ったが、どういう理由か継承者は現れなかった。モーツァルトが「疾走する哀しみ」なら、バッハは「疾走する悦び」といってもいいかもしれない。

古楽器は音量が小さいので室内楽に向き、むかしは教会や宮廷で演奏されたそう。少しだけ貴族の気分を味わうことができた。アンコール曲は「アヴェ・マリア」。前回は震災の後に開催されたためか「花は咲く」。とてもがっかりしたのだった。

初めて雑司ヶ谷を歩いた。神社が多く、昭和の面影が残る懐かしい町。鬼子母神とアヴェ・マリア。すてきなチョイスです。

2017年1月10日 (火)

津島佑子『笑いオオカミ』

津島佑子さんの名は高校時代から知っていたけれど、なぜか読まずにきてしまった。わたしが唯一すべての著作を読んだのは太宰治であるのだが、どちらかというと苦手。それでこの作家を敬遠していたということがあるかもしれない。津島さんは1947年に生まれ、昨年亡くなられた。

『笑いオオカミ』(2000年、新潮社)は12歳の少女と17歳の少年が10日間の旅をする話である。舞台は戦後まもない東京。

少女の父は墓地で無理心中死し、そこで寝起きしていた少年はそれを目撃したという設定。冒頭から太宰の影が落ちているようで、父を知らない娘を主人公にしたことは津島さんがこの作品にかける意気込みを語っているとも思える。

「みつお」と名乗る少年は「ゆき子」をさらうようにして、北へ行く列車に乗る。『ジャングル・ブック』になぞらえ、自分を「アケーラ」、ゆき子を「モーグリ」と呼び、「ジャングルの掟」をおしえながらの旅だ。

『ジャングル・ブック』はイギリスの作家ラドヤード・キップリングが1894年に出版した短編小説集で、虎に追われた人間の子がオオカミに救われ、育てられる物語。「アケーラ」はオオカミ、「モーグリ」は人間の子どもの名前である(呼び名は途中から『家なき子』の「レミ」と犬の「カピ」に変わる)。

闇市、地方の食堂や屋台、幽霊船。「アケーラ」は生きていくための知恵を持っていて、「モーグリ」をまもる。「モーグリ」は「アケーラ」を信頼し、必死でついてゆき、二人の間に兄妹のような感情が芽生える。

戦後の混乱を描きながら、コレラや一家心中、野犬、誘拐事件などの新聞記事を載せて、当時の社会状況を伝えている。最後は通報されて「アケーラ」は逮捕され、「モーグリ」は聴取を受ける。わたしとしては数年後の二人を描いてハッピーエンドにしてほしかったけれど、最後に少女誘拐の記事がおかれていて、その事件に着想を得たのだと納得した。

津島さんにとっては、自分の分身のような少女と父にまもられた過去を持つ少年に戦後の混乱期を体験させること、そこは「ジャングルの掟」のようなものがない無法状態であり、あさましいサルがいるばかりだった、ということを書かなければならなかったのだと思う。大佛次郎賞を受賞した、たいへんな力作である。

2016年12月27日 (火)

ボルタンスキー展

9月22日から12月25日まで庭園美術館でひらかれたクリスチャン・ボルタンスキー展『アニミタス--さざめく亡霊たち』を見た。ボルタンスキーの名は十年ほど前にパフォーマンス・プロデューサーの二瓶龍彦さんからおしえてもらった。

ボルタンスキーは1944年パリ生まれ。独学で制作を始め、映像作品やインスタレーションは国際的に注目されている。東京では初の個展。

庭園美術館は旧朝香宮邸、アールデコ建築の美しい建物である。順路に従って部屋に入ると、ささやきのような声が聞こえてきた。「この辺は滑りやすいから気をつけて」、「まるでわたしたちは、もうこの世にいないようですねえ」。思わず周囲を見回して、それがスピーカーから流れているのに気づいた。詩人の関口涼子が書かれたもの。

小部屋を舞台にした「影の劇場」はブリキや段ボール」で作られた小さな骸骨、首つり死体、コウモリなどがライトに照らされ、壁に影が映っている。本体も影も死を連想させる。ボルタンスキーはインタビューのなかでこの作品を「子どもじみている」と言っているが、呪術の道具のようでもあり、かなり不気味だ。

「心臓音」は小さな部屋の置かれた赤い電球が明滅するもの。匿名の「誰か」の心臓音であるノイズが流れ、この空間に長くとどまったら、気が狂うのではないかと思ってしまった。

黄金色の山のようなオブジェ「帰郷」は大量の古着がエマージェンシー・ブランケットでおおわれている。古着は見えず、いびつなかたまりなのだが、捨ておかれた服はアウシュヴィッツを連想せずにはいられない。

「帰郷」を取り巻くようにして吊られているのが「眼差し」。拡大された「目元」の写真が薄布にプリントされ、カーテンのように揺れる。ちょっと挑発的だと思った。

そして二つの映像作品、「アニミタス」はチリのアタカマ砂漠で揺れる数百の風鈴を撮ったもの。「アニミタ」とはスペイン語で「小さな魂」を意味するが、チリでは交通事故などで亡くなったひとのための「小さな祭壇」のことだそう。風鈴は日本製で、ほとんど人が訪れることのない高地に設置されている。

「アニミタス」と対になっている「ささやきの森」の舞台は日本の豊島(香川県)。山のなかの木々に取り付けられた四百の風鈴と短冊が木漏れ日の下で揺れる。短冊には大切なひとの名が書かれているという。祈りのインスタレーションである。

交通事故や地震その他の災害、戦争などによって失われた「匿名の」人びとを思うこと。ボルタンスキーの父はユダヤ系のフランス人で、危うくアウシュヴィッツ行きを逃れたが、そうした話を聞いて育ったことで、匿名の人びとの生と死が生涯のテーマになった。

インタビューによると、大切なのはこの作品を実際に見ることではなく、砂漠と山でたくさんの風鈴が揺れている作品があると知り、見に行こうと思えば行くことができることを知ることなのだという。ボルタンスキーは新しい神話を作ろうとしている。集合的な記憶になるような作品を生みだしているのだと思う。

見た人が美しいと思うのではなく、これは何だろうと考えてくれるような作品を作る。ボルタンスキーは使命をもって創作を続けているアーチストであることを知った。足をはこんでよかったと心から思える個展だった。

2016年12月21日 (水)

エレナ・トゥタッチコワさんのトークイベント

12月20日の夜、恵比寿のPOSThttp://post-books.info/news/でエレナ・トゥタッチコワさんの写真集『林檎が木から落ちるとき、音が生まれる』の刊行を記念するトークイベントがひらかれた。

まず14分間の映像作品『In Summer、With My Dinosaurs』が上映される。富ヶ谷のスペースnaniで12月の5日間上映されたもの。揺れる木や草、川に飛び込み、宝物を探す子どもたち。流れる水の音。写真集とはちがう魅力的な作品である。

写真集のデザインをなさった須山悠里さんの司会で、エレナさんの話を中心に乙益由美子さんとわたしが「記憶」をテーマにした詩を朗読する。エレナさんに会ってから書いた新作も読ませてもらう。出演予定だったぱくきょんみさんが諸事情で来られず、エレナさんとのトークはなしになって残念。

エレナさんは1984年、モスクワ生まれ。子ども時代を再生するように映像作品を作ったという。ふつうの日本人よりも語彙が豊かで、ことばを探るように考えながら、かなりの早口で話す。その表情がたいへんチャーミングなのだ。表現したいという思いがあふれて、それが日本語の上達につながったとわかる。

白い壁にはエレナさんが日本語で書いた文章。上手さに驚く。拙詩集に感想ももらった。現代詩を訳したこともあるのだそうだ。

「これからが始まりです」ということばを頼もしく聞いた。この先、彼女はアーチストとして大成してゆくだろうと思う。

須山さんのお父様でエクリhttp://www.e-ecrit.com/という出版社を運営されている須山実さんともお会いできた。ぱくきょんみさんが声をかけてくれたおかげでたくさんのひとと知り合うことができた。一年の締めくくりにふさわしいイベントに関わることができた夜だった。

写真展は12月29日までですので、みなさまぜひ足をお運びください。

2016年12月17日 (土)

ゴッホとゴーギャン展

東京都現代美術館で『ゴッホとゴーギャン展』を観た。12月18日までというので、大変な人出。どの絵の前にも人だかりができて、通過するしかないという状態だった。

ゴッホの絵は損保ジャパン日本興亜美術館にある大作『ひまわり』を観ただけ。今回はどうしても「靴」を観たかった。ほとんどモノクロで描かれた紐のある古い靴。ハイデガーが激賞したという有名な作品である。

画家の矢野静明さんのアトリエで年に数回ひらかれている現代美術茶話会に参加している。メンバーは瀬尾育生さん、倉田比羽子さん、築山登美夫さん、矢野夫人。そこで、ゴッホの「靴」をめぐる論争が話題になった。

ハイデガーが靴を農夫のものと解釈している(『芸術作品の根源』)ことについて、美術史家のメイヤー・シャピロ(1904-1996)は、ハイデガーの勝手な思いこみに過ぎず、ゴッホがパリではいていた靴であることを立証し、ゴッホの自画像であると唱えた。

それにデリダが加わり、古靴は自画像ではなく、返却不可能なもの、何ものにも帰属し得ないものに捧げられていると指摘した。左右一対のものではないという説もあるという。とにかく議論を呼んだ作品なのである。

予想外に美しい絵だ。ゴッホは印象派の技法を取り入れ、かつ輪郭をくっきり描いた。生前に売れた絵は一枚だけ。家族も持たず、精神を病んで37歳で自殺した。

つまらない絵はひとつもない。風景画はもちろんすばらしいが、人物画もよいと思った。自画像も含めて、どの顔も存在することの哀しみをたたえている。

一緒に展示されている同時代の画家の作品がひどく平板にみえた。

2016年12月 7日 (水)

エレナ・トゥタッチコワ『林檎が木から落ちるとき、音が生まれる』

詩人のぱくきょんみさん宅でモスクワ出身の写真家エレナ・トゥタッチコワさんにお会いした。12月9日から29日まで恵比寿のhttp://post-books.info/news/で彼女の写真展『In Summer:Apples, Fossils and the Book』がひらかれる。20日(火)にエレナさんとぱくさんのトークがあり、乙益由美子さんとわたしが朗読をすることになって、顔合わせをした。

エレナさんは1984年生まれで、日本に来て約5年。芸大大学院に通っているそうだが、完璧な日本語を話す。話したくてたまらないというようにことばがあふれてくる。明るくてかわいい女性。

できあがったばかりの写真集『林檎が木から落ちるとき、音が生まれる』(torch press)をいただいた。夏の川で遊ぶ少年や少女。空は真っ青というより浅黄色で、子どもたちは無邪気な年齢を過ぎて、世界の複雑さを知り始めたように、どこか心細げにみえる。

エレナさんは子どもの頃の話をたくさんしてくれた。夏に過ごす家は「ダーチャ」と呼ばれ、そこにお祖母さんが住んでいて、長い休みに家族で出かけていく。川で遊び、化石や恐竜の骨を掘り出し、自分だけの宝物を探す。それがエッセイになって写真集の最後に載っている。ラストを引く。

林檎が木から落ちた。それだけのこと。木にいたときも誰の目にも触れず、落ちても草の中に隠れたままの小さな林檎。その音だけがいつまでも記憶に残った。アーニャが11歳になった年の夏の終わり、彼女の髪の毛が一番長く伸びた8月のことだった。

林檎は3種類あるのだという。小さくて酸っぱいもの、堅いもの、白くて透明なもの。透明な林檎はロシア特有のものだろうか。

エレナさんは自然と人間の関わりや文化的現象を通じて、記憶がどのように形成されるかということに関心を抱いて、リサーチを重ね、写真や映像、音、テキストによるインスタレーションとして構成している。

ぜひ足をお運びください。

POST 渋谷区恵比寿南2-10-3 月休 12:00-20:00

2016年12月 2日 (金)

ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』

詩人の草野信子さんにおしえてもらったミハイル・ブルガーコフ(1891-1940)の『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫訳・河出書房新社)を読んだ。

ブルガーコフはソビエトの作家。スターリンに直接手紙を出すこともできる立場にあったのに、あからさまに体制批判をしたわけではないのに、彼の本は出版されなかった。危険な書物とみなされたのだろうか。

悪魔の一味がモスクワを混乱に陥れるというドタバタと巨匠とマルガリータの恋物語が並行して描かれている。

冒頭は作家のベルリオーズと詩人のイワンが公園でキリストの存在について話をしているところに外国人が割って入ってくるシーン。外国人は実は悪魔で、ヨシュア(キリスト)の刑死前後にその場にいたと言うが、もちろん二人は信じない。それなら、とさまざまな予言を魔法を使って現実にしていく。

作家協会の会員や劇場のお客など、権威や金に振りまわされる人間の愚かさを笑う物語になっている。ただ巨匠が書いたとされる小説はすばらしい。ローマ総督ピラトゥス(ピラト)がヨシュアの磔刑を止められなかったことを悔やんでいるという内容であるが批評家にけなされ、巨匠は精神に異常を来してしまう。

池澤夏樹さんが栞に書かれているように、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を彷彿とさせる。二男のイワンが作った劇、中世のスペインにキリストが甦り、大審問間官と対決する物語だ。大審問官は神の存在は認めるが、信じない。ピラトゥスはヨシュアの起こす奇蹟を目の当たりにして、心が揺れるのだ。

マルガリータの無心の愛が巨匠を救いだす。出会いから別れ、再会まで二人の物語はこの猥雑な長編において清涼剤のようになっている。「エピローグ」として、たくさんの登場人物のその後が書かれているけれど、なくてもよいように思った。純朴なヨシュア、苦悩する頭痛持ちのピラトゥス、ヨシュアの良き弟子マタイの物語は緊張感に満ちている。ドストエフスキーに負けていない。ブルガーコフは天才にちがいない。

«「詩を書こう、詩を読もう。」2016年・秋