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2017年6月16日 (金)

ボブ・ディランの日々

遅ればせながらボブ・ディランを聴いている。「風に吹かれて」がヒットしたとき、わたしはまだ子どもだった。歌っていたのはピーター・ポール&マリー。

メッセージ性の強いフォークソングは苦手だった。小学生の頃はトランジスタラジオで英米のポップスばかり聴いていた。その後シンガーソングライターの時代が来て、高校時代の女神はキャロル・キングだった。

この10年はクラシック、最近はバッハの『マタイ受難曲』を朝から晩まで聴いていたが、ここに来てボブ・ディラン漬けになっている。

先日、ノーベル文学賞の受賞講演が発表された。それについて短い文章を書こうと思い、唯一持っているベスト盤をくりかえしかけている。

気になっているのが「Forever Young」。沖縄の三線のような音が入っている。何の楽器だろうと、この曲は特に集中して聴いてしまう。

ディランの影響を受けたミュージシャンは多い。パティ・スミスやブルース・スプリングスティーンが有名だけれど、ポール・サイモンやジョン・レノンもそうだと思う。日本では桑田佳祐、奥田民生など。詩人では福間健二さん。

人間の内面に分け入っていく複雑な歌詞、息の長い歌い方。

「はげしい雨が降る」が聴きたくて、『フリーホイ-リン』を買った。授賞式のときに名代で歌ったパティ・スミスが歌詞をまちがえ中断するシーンを見た。何かとても温かいものが流れた時間だったと思う。

締め切りまで二週間。書けるだろうか。

2017年5月28日 (日)

アドルフ・ヴェルフリ展

東京ステーションギャラリーで『アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国』(2017年4月29日-6月18日)が開催されている。http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201704_adolfwolfli.html

画家の矢野静明さんのお薦めで、倉田比羽子さんと一緒に行ってきた。ヴェルフリは「アウトサイダー・アート」の芸術家、巨匠である。「アウトサイダー・アート」とは正規の美術教育を受けていないひとが制作した作品のこと。

「アール・ブリュット」として提唱された当初は精神障害者や受刑者の作品を対象としたそうだ。

ヴェルフリの絵はすべて新聞用紙に鉛筆、色鉛筆で描かれている。余白がなく、絵と文字と音符で埋め尽くされている。

アドルフ・ヴェルフリ(1864-1930)はスイス・ベルン近郊の貧しい家に生まれ、悲惨な少年時代を過ごした。統合失調症のため31歳で精神病院に収容されて、四年後に創作に目覚め、66歳で死去するまで描きつづけた。

一日に鉛筆1本を使いきったという。どの絵にも自分の顔、鳥、飾り罫(?)などが描き込まれている。

複数の図案を組み合わせることによって、一枚の絵を作りあげていて、宗教画のようにも見える。

殊に白い鳥が好きだったらしく、デフォルメされたものが至るところに配されている。

空想の世界を自伝のように描いた『揺りかごから墓場まで』、理想の王国を築く方法を描く『地理と代数の書』、音楽への愛があふれる『歌と舞曲の書』。

ヴェルフリは25,000頁の絵を遺した。

育った家や働いた農場、病院の映像が流され、自らのレクイエムとして作った「葬送行進曲」も聞くこともできる。

帰宅して、美術館のチラシにあるヴェルフリの自画像や鳥をまねして描いてみた。何だか楽しくなってきた。

子どものころ、好きなものや得意なものばかりを飽きずに描いていたことを思いだした。

がっしりした体躯と意志的な顔をもった画家は永遠の子どもだったのだろう。

子どもの部分を手つかずのまま心の一隅に宿しているのが芸術家なのだと思う。文学者もまた。

2017年5月21日 (日)

「詩客」時評 

「詩客」というサイトで時評を担当することになった。第一回がアップされている。タイトルは「詩を二つに分けるもの 〈感性の秩序〉ということ」。

今年に入ってとどいた詩誌「栞」5号、発行人の山岸光人さんが書いているエッセイ「詩集を読んで70年代を振りかえる・・・」について触れている。

取りあげられているのは松下育男さんと菊池千里さんの詩集。山岸さんは松下さんの詩集に対する当時の批判を引用していて、そのなかの瀬尾育生さんの文章(『現代詩手帖』1980年の詩時評)に「この世界の感性の秩序」ということばがあった。

昨年わたしは菅野覚明さんの『詩人の叡智 吉本隆明』をおもしろく読んだのだが、そこにも「感性の秩序」ということばがあり、吉本さんが使われたことばなのだろうと著作集をひらいたところ「『四季派』の本質」に出ていた。

菅野さんはこのことばを「芸」としての詩について語る部分に使っている。

「感性の秩序」とは何か。興味のある方はぜひお立ち寄りください。

http://blog.goo.ne.jp/siikaryouzannpaku/e/1d8bfc89ff6a0c80a2124fb2f304ee32

2017年5月11日 (木)

N響のチャイコフスキー

5月3日、上野文化会館でN響のコンサートを聴いた。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ短調op.35と交響曲第5番ホ短調op.64。

指揮はロベルト・フォレス・ヴェセス。巨匠チャイコフスキーの音楽はポピュラーに過ぎるし、期待していなかったのだが、これが大違い。心揺さぶられた。

3階席で残念ながら顔は見えなかったけれど、バレンシア出身の若い指揮者の動きに釘付けになった。細いからだ全体を使ってアグレッシブで繊細な音楽をつくっていた。N響のひとたちもそれに応え、少しずつ演奏に一体感が生まれていくのがわかった。

あたりまえだが、Eテレで見るN響の演奏とはまったく違う。生演奏にはテレビやCDを聴いているときには味わえない礫のような音の勢いを感じる。ソロの楽器を演奏しているひとを探す愉しみもある。

協奏曲のソロは大江馨さん。1994年生まれの気鋭のヴァイオリニストで、軽やかで深い音を奏でていた。ベテランの円熟した演奏もよいけれど、歯切れのよいヴァイオリンがチャイコフスキーの音楽に新風を吹きこんだと思った。

音楽については素人なので、感想を書こうとすると慣用的な表現ばかりになってしまい、我ながら情けないのだが、万雷の拍手だった。

チャイコフスキーの音楽を聴いて涙が出ることがあるなんて思わなかった。指揮者のちからを感じた一日。谷中を抜けて日暮里まで歩くあいだ満たされた気持ちに浸りました。

2017年4月19日 (水)

おぞましい小説

イアン・マキューアンの『セメント・ガーデン』(宮脇孝雄訳・早川書房)を読んだ。イギリスで手練れと称されるベストセラー作家の長編第一作。1978年に発表され、日本では2000年に刊行されている。

15歳の少年ジャックが語り手。両親が死んで残された四人兄弟は離ればなれにされることを怖れ、親の死を隠蔽するため、死体をコンクリート詰めにする。

子どもだけの生活がはじまる。姉のジュリーはボーイフレンドと遊びまわり、二女のスーは部屋にこもり、末っ子のトムは女の子の格好をし、ジャックは自慰行為にふける。

母親をコンクリート詰めにした秘密と日々をやり過ごすことが兄弟の共有するもので、それぞれが未来を夢見ることもない。

ジュリーのボーイフレンドが秘密に気づき、さらにジュリーとジャックの近親相姦の現場を目撃してしまう。

姉と弟が性交する展開には驚いた。二人は仲が悪いという設定だし、そこに至る伏線もない。傍には乳児返りをした弟もいて、おぞましい光景以外の何ものでもない。

ブッカー賞の候補になったらしいが、感動させられるような台詞もシーンもなく、四人のうちの誰にも感情移入ができない。

小説には〈救い〉がなければならないと思う。この小説を読んでいるあいだ、ずっと不快感が消えなかった。ここから宗教と大人の恋愛を扱った優れた小説『未成年』(2015年)に辿りついたのだ。やはりすごい作家にちがいない。

2017年4月15日 (土)

『言の葉の庭』を読む

新海誠さんの小説『言の葉の庭』(角川文庫)を読んだ。劇場アニメーションを監督みずから小説化したもの。アニメでは描かれなかった人物とドラマが織り込まれているという。アニメは見ていない。

緑の滴る東屋の絵が表紙になっている。とてもきれいだ。舞台は新宿御苑、冒頭は新宿駅の雑踏。主人公は15歳の秋月孝雄。

この少年を生みだしたことが監督の手柄だと思う。普通の男の子のようだが特別なのだ。

「普通」で思いだしたが、婚活をする男性は「普通」の女性との出会いを望むらしい。ふつうの容姿で料理がそこそこできて・・・。でもそういうひとはなかなかいないのだそうだ。つまりそういう女性は「普通」ではないのだという。

孝雄もふつうの少年だけれど、どこにでもいるような男子ではない。両親の離婚にとまどうが、自分の夢を実現すべく淡々と進んでいく。自分で決めたこと(雨の日の午前中は学校をさぼって新宿御苑に行く)を守り、家出した母に代わって家事をし、学費を貯めるためにアルバイトをする。素直で、ぶれることなく真っ直ぐだ。

新宿御苑の東屋で出会った12歳年上の美女、雪野がこの少年に惹かれていくことに納得させられてしまう。年相応の生真面目さと、ひとの気持ちに寄りそうことのできる柔らかな感受性。異性としてというよりも、浄らかな存在に出会たことの幸福を彼女は感じたのだと思う。

十話から成り、一つ一つにサブタイトルが付いている。たとえば第一話は「雨、靴擦れ、なるかみの」、第四話は「梅雨入り、遠い峰、甘い声、世界の秘密そのもの。」など。村上春樹風である。

村上春樹といえば、孝雄がバイト先で出会った中国人シャオホン(宵峰)が言うひとこと、「なにごとにも原因はある。すべては繋がっている」は村上さんが書きそうな一文だと思う。少ししか登場しないが、興味深いキャラクターだ。

しだいに明らかになる相関図、万葉集の歌が織り交ぜられて、なかなか凝った小説になっている。

とてもおもしろく読んだが、孝雄が作った靴についてはちょっと残念なように思った。爪先と本体と踵の色が違うのだ。

2017年4月11日 (火)

カフカの短編を読む

カフカの『掟の門前』を読んだ。「門番」が登場する。以前、番人が出てくる詩を書いたとき、詩人のIさんからこの短編を連想したという手紙をもらった。今回は倉田比羽子さんの「(丘の向こう)」という長詩に門番が登場するので、再読した。

田舎から来た男が「掟の門前」で大男の門番に「入れてくれ」と言うが、拒否される。掟の門は誰にもひらかれていると思っていたが、「部屋ごとに一人ずつ力持ちの番人がいる」と聞いて待つことにする。

長い年月が経ち、死ぬまぎわに男は「どうして自分の他に中に入れてくれと言ってこなかったのか」と門番に訊ねる。

「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門はおまえひとりのためのものだった」。

カミユの『シーシュポスの神話』に通じる不条理の物語だ。掟を破って門をくぐるという選択が正しかったのかと読者に考えさせる、優れた作品である。

もう一つ、やはり『変身』は別格の出来である。あまりにも有名なので、あらすじを説明するまでもないが、ひとことで言うと朝起きたら甲虫に変身していたグレーゴルという男の話。でもまだその先がある。

息子であり兄であった虫の死をきっかけに家族が再生するのだ。この結末には驚いた。両親と妹は虫のために陥った不幸な状態が終わったことを喜び、それぞれ新しい生活を始める。グレーゴルの悲劇が家族の未来をひらき、ハッピーエンドで終わる。

カフカはこれを書きあげた直後に友人たちの前に朗読し、ときおり吹きだして、中断しなくてはならなかったという。

テレビもラジオもなく、本の出版にも時間がかかった時代、作家にとって朗読会は新作を発表する、よい機会であっただろう。また人びとにとっても数少ない娯楽の時間だったと思う。

カフカは人びとに楽しんでもらうため、ストーリー性があり、ユーモアに富み、思いがけない展開をする物語を書いたのではないだろうか。

孤独のなかでひたすら書いたのではなく、人びとの反応を見ながら作品を作りあげていったのだと思った。

2017年4月 1日 (土)

イアン・マキューアン『愛の続き』

イアン・マキューアンの『愛の続き』(小山太一訳・新潮社)を読んだ。小説家は基本的に粘着気質だが、マキューアンも例外ではない。

冒頭は気球事故のシーン。子どもを乗せて暴走する気球を数人の男が止めようとし、一人が死ぬ。死体に駆けよった中年の「ぼく」(ジョー)に愛のサインを送られたと感じる二十代のジェイク。

ジョーは自分を愛しているが素直に応えることができないと信じるジェイク、また無神論者のジョーを自分の力で神に近づけなければならないと思い込み、ジェイクはストーカー行為をはじめる。

ストーカーの心理状態を説明するために「ド・クレランボー症候群」の症例が巻末に詳しく記されている。相手を神のように崇める強迫的な愛は、手ひどく拒否されると怒りから殺意に変わっていくのだそうだ。

しばしば世間を騒がすストーカー事件、容疑者は多くのばあい男性である。男性の方が女性より妄想が強いということがあるだろう。ふくれあがった妄想とズタズタになったプライドは相手を消してしまわなければ収まらない。そこで殺人ということになる。

ジョ-は著名な科学ライターでパートナーのクラリッサは文学部の教授という設定。科学雑誌に掲載された記事やキーツの詩について。マキューアンはこの作品でも徹底的にリサーチをして、物語にリアリティを与えている。

ジェイクはジョーのアパートの前で待ち続け、外出するジョーの後をつける。独りよがりな解釈を長々と綴ったジェイクの手紙にはちょっと辟易した。

気球事故、事故で死亡した男の妻が抱える疑念、ジョーが陥る恐怖と狂気。伏線は最後にすべて回収され、ハッピーエンドで終わるのだけれど、シチュエーションにも展開にもやや不自然なところがあり、読み終えるのに体力の要る小説だった。

2017年3月20日 (月)

イアン・マキューアン『アムステルダム』

イアン・マキューアンの『アムステルダム』(小山太一訳・新潮社)を読んだ。2014年に刊行された『未成年』がすばらしかったので、この作家の作品をもっと読んでみたいと思っていた。

これは1999年にブッカー賞を受賞した作品。マキューアンは1948年イギリス生まれ。洗練された文章とありえない設定、ジェットコースター的な展開に驚かされた。

葬儀のシーンから始まる。魅力的な才人モリーが四十代の若さで痴呆死し、元恋人の三人が葬儀に参列する。

作曲家と新聞の編集長、外務大臣。モリーが生前に撮った写真が彼らの人生を狂わせる。

マエストロと呼ばれるクライヴ、遣り手の編集長ヴァーノン、首相候補のガーモニー。仕事に成功した中年男の愚かさ、それぞれの思惑の交錯を描く手腕に唸った。

モリーの夫がガーモニーのスキャンダル写真をヴァーノンに託し、ヴァーノンは新聞に掲載することを決める。反対するクライヴ。事前にそのことを知って、もみ消しを図るガーモニー。

マキューアンは新聞社の内幕と音楽界の内情を描くことで、作品に圧倒的なリアリティをもたらした。交響曲を作ることがどのようなものであるかということも知ることができた。

著者のインタビューにも触れた訳者のあとがきもよかった。タイトルの由来がわかる。また、「man of the world」ということばを初めて知った。「ちゃんと社会に適応していて、社会のちょっとした不正には目をつぶるだけの度量のある人物」ということだという。イギリス的ですね。

小説好きな方にぜひ読んでほしい長編である。

2017年3月 9日 (木)

『騎士団長殺し』を読む

村上春樹さんの『騎士団長殺し』を読んだ。村上さんが類い希なストーリーテラーであり、進化を続けていることを改めて思い知らされた。

冒頭に顔のない男が出てくる。ルネ・マグリットの絵画を連想した。鳩の輪郭のなかに雲が浮かんでいる絵が有名だが、顔にあるべきパーツの代わりに果物などが描かれたものも多い。

まだ感想がまとまらないのだけれど、『東京奇譚集』(2005年・新潮社)のなかのいくつかの短編を思いだして、再読してみた。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」はマンションの階段を降りる間に失踪した男を捜す「私」の話。男の妻の依頼でマンションの階段を何度も上り下りし、そこで会った住民とどうでもいいような話をする。手がかりはない。20日後に仙台駅で一時的に記憶喪失になった男が見つかる。

「私」は完璧に削った鉛筆を机に並べている。依頼した女は先の尖ったヒールをはいている。そういう細部がわたしの記憶に残っていた。

何も起こらないことをいかに書くかという習作のようでもある。村上さんがパンケーキやドーナッツについて書くと、何か特別なことのように思えて食欲がそそられる。

また、「日々移動する腎臓のかたちをした石」は小説家が書いている作品のなかに登場する石のこと。部屋のなかにある石は勝手に動いているらしく、置き場所が変わっている。

つまり「どこであれ・・・」は『騎士団長殺し』の主人公のテレポートのような移動、「日々・・・」は穴のなかにあった古い鈴のヒントになったのだと思われる。

村上春樹は過去に書いた短編を変貌させて、大きな物語を作ったのだろう。短編としては淡い内容の作品もそのままでは終わらせない。さすがである。

その手法を何とか詩作に取り入れることができないものだろうか。やっていないこともないけれど、一般に詩はエンタテイメント性が薄いから読まれない、気づかれないことになってしまているような気がする。

『騎士団長殺し』の感想についてはまた後日書きたいと思います。

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