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2018年4月17日 (火)

エッセイ「詩を書こう、詩を読もう」

所沢市立図書館の広報誌「いずみ」に「詩を書こう、詩を読もう」というエッセイを書いた。

「詩を書こう、詩を読もう」は毎年図書館で行っているイベントのタイトルでもあり、そこで来場者に向けて話してきたことをまとめたもの。

まず、現代詩というものを理解してほしいと思ったのだが、これには時間がかかりそうだ。

このイベントを始めて7年目になるが、初めの頃は自作をコピーした詩集を地元で売ったと自慢するひとや詩人としての収入を質問してくるひとがいた。

詩というのは教科書で読んだことのある「歌」のようなものだと思っているひとも多い。もちろん「歌」も詩の一ジャンルであるけれど、「歌詞」とはちがう。

応募作品を読むと、現代詩というものにまったく興味を持っていないことがわかる。イベント当日に配布する冊子に優れた詩を紹介しているのだが、読んでくれているひとはいるのだろうかと思う。

せめて図書館にある講師の詩集くらいは読んでほしい。

などと思いつつ、詩人になるにはどうすればよいか、短いエッセイが掲載されていますので、興味のある方はお立ち寄りください。

2018年4月 8日 (日)

坂口恭平『現実宿り』

坂口恭平さんの『現実宿り』(現代詩文庫)河出書房新社)を読んだ。熊本出身の作者が2015年の熊本地震から半年後に書き下ろした長編小説。

冒頭では主人公は「砂」だが、章ごとに変わる。拉致された若い男、鳥の目、馬など。前半はどのように展開していくのか興味を持って読んだのだが、後半になると自動筆記のような文章になっていく。

人間が見た夢の記録はわたしたちの歴史だった。わたしたちは彼の中にいた。わたしたちは図書館にいた。わたしたちは書いていた。彼は書いていた。わたしたちは起きていた。彼は夢を見ていた。わたしたちは遊んでいた。・・・

このように比較的みじかい文章が続く。ほとんどが過去形で書かれている。拉致された男である「わたし」にパンをくれる女や主人公を「兄貴」と呼ぶモンゴル人など、重要なキャラクターだと思ったが、途中で消えてしまう。推理小説で伏線が回収されずに終わるような、もやもやとした気分が残った。

作者は躁うつ病であることを公表していて、うつ状態のときに一日5時間のペースで執筆して書き終えたが、熊本地震が起こったので推敲をやめたのだという。

地震の前に書かれた作品であるが、災害後を描いているようだ。坂口さんの荒涼とした意識の世界が被災後の風景と重なったのだと思う。

多くのものが壊れて砂になった世界。図書館があるが、ことばはない、など矛盾した世界だと思うけれど、旧約聖書を読んでいるような不思議な読書体験をすることができた。

2018年3月29日 (木)

坂口恭平『徘徊タクシー』

倉田比羽子さんから坂口恭平という作家をおしえてもらい、『徘徊タクシー』(新潮文庫)を読んでみた。

1978年熊本県生まれ、建築家・小説家・音楽家だという。文章は荒削りな感じだが、強いパワーがある。

まず、主人公が坂口恭平であることに驚く。25歳で、実験的な仕事をする設計事務所に勤めている。全国から希望者がやってくる有名な事務所で、給料は三万円。実体験が下敷きになっていると読むことができる。

祖父危篤の知らせを聞いて、熊本にある実家を訪ねたところから物語は始まる。型破りだった祖父の葬式は大騒ぎのうちに終わり、主人公は徘徊癖のある曾祖母トキヲを公園に連れていく。地面を指して「ヤマグチ」と言いはる曾祖母を見て、徘徊老人を乗せるタクシーの仕事を思いつく。

すぐに実行に移すが、うまくはいかない。けれども手応えをつかむ。

呆けた老人にとって、今生きている現実はたった一つの在り方なだけであって他の世界が存在する。「このような見えない空間を、人々の眼前にあぶり出すような建築家になろう」と考えるのだ。

建築家としてやりたいことを語るために小説という様式を借りているのだと思う。他に「蠅」と「避難所」、二つの短編がおさめられていて、どちらも主人公は坂口恭平だが、ティストがまったく違う。

長編小説『現実宿り』(河出書房新社)を読みはじめた。すごい作家になるのではないかと思った。

2018年3月15日 (木)

ブレードランナー 2049

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『ブレードランナー2049』を観た。リドリー・スコット監督の前作から25年を経て作られた映画だが、スリリングなシーン、近未来の映像のリアルさなど、緊張感あふれる160分を楽しむことができた。

ストーリーはかなり複雑だ。主人公は違法レプリカント(人造人間)を処分する任務に就く捜査官のK(ライアン・ゴズリング)。脱走したレプリカント、サッパーの家を訪れたときから巨大な陰謀に巻きこまれる。

サッパーは「そんなつまらない仕事をしているのは奇跡を見たことがないからだ」と言うのだが、その「奇跡」をめぐって物語は展開する。

Kはサッパーの庭に埋められたケースを見つける。入っていたのはレプリカントの女性レイチェルの骨だった。レイチェルは30年前、捜査官だったデッカード(ハリソン・フォード)との子を出産したときに命を落とした。子どもの行方はわからない。

Kは自分がその子ではないかと思い、真相を探ろうとする。レプリカントであるKには他人の幼少時の記憶が刷りこまれているのだが、シリアル(製造)番号など合致する部分があるのだ。

ネタバレになるので、その後は書かないが、ラストで伏線がすべて回収される。さらに続編が作られることになるだろう。

2018年3月 8日 (木)

殺人事件

わたしの住んでいる町で変死体が見つかってから1か月が経った。道幅いっぱいに張られていたブルーシートも外された。

商店街もない静かな町である。当日、たまたま事件現場になった家の横を通った。買いものに行く道の途中にあるのだ。

パトカーが数台停まっていて、物々しい様子だった。夜のニュースで母親が溺死、同居していないが介護に訪れた次男が刺されて死亡と知った。

その時点では容疑者は捕まっていなかった。推理小説とか犯罪小説の類はほとんど読まないのだが、犯行の動機や逃亡先など、あれこれ想像してしまった。

電車に乗って逃げるとすれば監視カメラに映るから、やはり徒歩で現場から離れたのではないか。30分も歩けば丘陵地帯だ。返り血も浴びただろうが、コートで隠すことができただろう。気が動転しているはずだから、挙動不審な行動を取ったにちがいない・・・。

けれども二人の容疑者は駅の監視カメラに映っていて、数日後に逮捕されたと報じられた。

先日、被害者のキャッシュカードでお金を引き出したと新聞(日経)に書いてあったが、知りたいのは動機である。

二人は身体の不自由な高齢女性の世話をしていたという。複数の人間がその家に出入りしていたそうだが、宗教が絡んでいたのだろうか。

他紙には事件の詳細が掲載されたのか。朝の情報番組では取りあげられていないようだ。気になってしかたがない。早く全貌を知りたいと思う毎日である。

2018年2月28日 (水)

「雨期」70号

「雨期」70号ができあがりました。全81ページ、銀色の表紙です。

記念アンケートは「至福のとき」。執筆者のほか、いつも小誌に感想をくださる詩人の方に答えていただきました。阿部日奈子さん、北川朱実さん、瀬崎祐さん、竹野滴さん、ぱくきょんみさん、松本邦吉さん、水島英己さん、水野るり子さん、村野美優さん、和田まさ子さん、渡辺めぐみさん。

詩は古内美也子、原口哲也、唐作桂子、谷合吉重、青木津奈江、君野隆久、山岸光人、須永紀子。

論考は二つ。北野英昭の「吉本隆明ノート」、須永の「詩の未来を考える」3。

短編通信では須永がヨハン・テオリンの『黄昏に眠る秋』、カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』、荻野アンナ『カシス川』と若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』について書いています。

2018年2月22日 (木)

詩客「「自由詩時評」4

詩客のサイトに4回目の「自由詩時評」が掲載されています。カズオ・イシグロの長編小説『忘れられた巨人』とノーベル文学賞、鮎川信夫など、最近気になっていることを書きました。

これで時評は終わり。なかなか大変でしたが、よい修行になりました。長く書いていても、文章はむずかしいです。伝わるかどうか、つまらないのではないか、などと思い悩み、一字一句が気になります。

3か月の間に読んだ本、思いだしたこと、考えたことなど、すべて入れようと思っているので、全体にまとまりがなくなってしまったように思います。

それは詩を書くときも同じで、一編にすべてを込めようとするため、肩にちからが入ってしまいます。

ただ、詩に限らず、文学について語りたいと思っていました。いま書かれているものや過去の優れた文学作品について、いま、現在の個人的な考えを書きとめておきたかったのです。

お時間のある方はお立ち寄りください。

2018年2月 8日 (木)

荻野アンナ『カシス川』

出版社のOさんのお薦めで、荻野アンナさんの『カシス川』を読んだ。大腸癌を患った娘と高齢の母の闘病記を小説に仕立てたもの。

タイトルの「カシス川」というのはランボーの詩のタイトルだそう。作者訳の詩の冒頭を引用する。

誰も知らない カシス川

異形の谷間を 流転する。

かあかあカラス百羽 正真

正銘の 天使の声。

カシス(クロスグリ)といえば濃紫色の果実だが、脳のCT画像、血管の流れの色だそうだ。

7つの連作小説になっていて、最初の「海藻録」から引きこまれた。

「私」は公園で素通しの額縁をもって歩いている男に出会い、自分の病と死んだ母のことを話す。

抗がん剤治療中であり、日記風に日付を追って自覚症状やレントゲン検査、手術から退院までのこと、入院の必須アイテムなどもおしえてくれる。荻野さんのサービス精神が全開だ。

男は翌週、額縁に「私」の癒やしのイメージを入れて持ってくる。液晶画面に画像が流れる。この本のエピローグである。

7つの小説は「私」と母の病と老い、娘と母の戦いを描いている。患者でありながら一人では何もできない、わがままな母を介護するタフさにまず圧倒される。「私」は自身と一緒に母も隣室に入院させる手はずを整える。実行力は半端ではない。

おそらく大腸癌患者の人びとに勇気を与え、この病気について広く知ってもらえるという点で、本書は価値あるものだと思う。

ただ内容柄、エッセイに近く、それが難であるかもしれない。画家である強烈キャラの母、その辛口発言など、十分におもしろいし、読者に多くのものを与えてくれる。

欲をいえば、小説としての虚構をもっと盛りこんでもよかったのではないかと思った。

2018年1月19日 (金)

『君の名は。』

昨年大ヒットしたアニメーション映画『君の名は。』を見た。期待していたほどのものではなかった。年をとったからかもしれないけれど、感性は若いつもり。なぜ多くの若いひとたちのように心揺さぶられなかったのか。

男女の身体が入れ替わるというのは1982年に大林宣彦監督が『転校生』でやっているし、死者がよみがえるストーリーは2003年、塩田明彦監督の『黄泉がえり』をはじめとして、多くの映画で扱われている。だから新味がないと思った。

また、主人公の三葉と瀧の魅力があまり伝わってこなかった。そのため二人が惹かれあうことに説得力を感じなかった。前作の『言の葉の庭』は15歳の少年「たかお」の真っ直ぐさが何よりも魅力的だった。

それからリアリティー。リアルなのは風景描写だけで、設定に無理がある。アニメーションということを考慮しても辻褄合わせが過ぎるように思う。特にラストで明かされる二人の最初の出会い。これはなくてもよいのではないか。

伏線をすべて回収するという作り方になっていて、全体がきゅうくつな感じ。観客はジェットコースター的な展開についていくのが精一杯で、おそらく考える暇がないだろう。

宮崎駿さんの映画は何度も見ているが、新海誠さんの作品をもう一度見たいとは思わない。

宮崎駿にあって新海誠にないもの。それはたぶん「間」というもの。日常のさりげない時間の描写したシーン、ではないだろうか。

2018年1月15日 (月)

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』(土屋政雄訳・ハヤカワepi文庫)を読んだ。2015年、十年ぶりに発表された長編小説。

ファンタジー小説のようでもあるが、心躍るような冒険や魔法は出てこない。『アーサー王伝説』を下敷きにして、アーサー王亡きあとのブリテン島を舞台に人びとの記憶や愛を描いている。

かつてはいがみあったブリトン人とサクソン人だが、雌竜の息によって記憶が消され、共存している。アクセルとベアトリスの老夫婦は村人たちの記憶が数分で消え、自分たちの記憶も薄れつつあることに気づく。

二人は遠くに住む息子を訪ねる旅に出る。

むかし優れた戦士だったアクセルと善良そのもののベアトリス。二人は途中で狂女や勇敢な戦士、傷を負った少年、老いた騎士、船頭などに出会う。

カズオ・イシグロの小説はどちらかというと冗長だけれど、その慎重さ、ていねいさがファンにはたまらない魅力だ。

読み終わって、歯がゆいものを感じたのだが、昨年Eテレで放送された『白熱文学教室』を見て、ようやく彼の意図することがわかった。

イシグロの作品はつねに記憶がテーマだ。この小説では個人の記憶と歴史的な記憶が軸になっている。「巨人」は竜のことではなく、大きな記憶のことなのだ。

第二次世界大戦後のフランスがモデルの一つになっている。時の大統領ドゴールはフランス人の多くがナチスドイツに協力した暗い記憶を「わたしたちはみな勇敢なレジスタンスだった」と信じさせることによって国をまとめた。ルワンダや旧ユーゴなど、忘れた方がよい記憶もある、と彼は言う。

イシグロは現在に目を向けつつ、普遍的な物語を書こうとしてきた。一作ごとに舞台と設定を変え、今を生きるわたしたちに課題を提出しつづけている。その試みは十分ノーベル文学賞に値するものであるだろう。

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