2012年5月14日 (月)

詩とは何か 10 福間健二

30のとき、今はない『詩学』で詩誌月評を一年間やらせてもらった。無名だったし自信などまったくなかったけれど、よい詩を見つけることが仕事だと割り切って、毎月たくさんの詩を読んだ。

福間健二さんの詩に出会ったのは加藤健次さんが発行する『防虫ダンス』誌上だっただろうか。千石イエスをモデルにしたと思われる教祖やウサギやびっくり箱について書かれた長い散文詩だったと記憶している。

とにかく群を抜いておもしろかった。やわらかなことばで語られる小説のような詩の世界。それまで現代詩に感じていた窮屈さのようなものから自由であると思った。

対面を果たしたのは3年後である。黒い皮のジャケットを着ていらして、デザイン関係の仕事をしているひとのような印象があった。一時詩から離れて、戻って来た福間さんを見つけたのがわたしだったそうである。

それから私家版の『最後の授業/カントリー・ライフ』が届いた。1972年から1983年までに書かれた詩がおさめられている。538ページ。『青い家』のように厚く、装幀も似ている。

自分の詩のスタイルが定まらず、苦しんでいたわたしは、書く前に必ずこの詩集をひらくようになった。任意にひらいたページを書き移してみる。

まっさおな伝説の崖の上に置きざりにされる男が

ぼくの誕生日の朝に雨をふらせる

祖先ののこした悲しい檻について

みんなが黙っている土地で生れたぼくは

うずくまり やがて他人の死で凍った河を泳ぐ

(「熱のある誕生日」部分)

入力しながら、一つのことばやイメージを引きずらない、ニュートラルな主体が疾走していく詩であることに気づいた。当時わたしはアメリカの小説に興味を持っていたが、福間詩の世界にはそれに近いものがあると思っていた。

いずれにも片寄らない、中立的な「ぼく」。そのポジションを福間さんは早くから詩の主体に選んだのだ。

1995年に出した『何かひとつ新しいこと』(雨期編集部)という詩集にはアメリカの小説、殊に短編から得たものも入っているけれど、福間さんの詩からも大きな影響を受けているのである

2012年4月27日 (金)

詩とは何か 9 鮎川信夫

19のときに鮎川信夫と出会った。最初に目にしたのは「吐く息の」。どこか古風な、鮎川らしくないともいえる、短い詩である。最終連を引いてみる。

きみの髪をゆわえた

ほそい梅の小枝は

非時の曇天に

ゆれつづけている

淡いエロチシズムと「非時の曇天」という硬質なことば。電車のなかで、友人が持っている現代詩文庫を見た瞬間、大きな衝撃を受けた。

「死んだ男」、「サイゴンにて」などは兵士としての体験が下敷きになっているが、個人的なレベルで書かれてはいない。飢えや痛み、望郷の念などではなく、戦地の風景や戦友を描くことによって、戦争というものの理不尽さを表現し、その意味を問うている。

どの詩に美しいフレーズ、忘れることのできないことばがあり、哲学がある。人間の知性というものはこんなふうに遠くまで行くことができるのかと思った。

鮎川信夫からスタートしたことは、わたしにとって、幸運ではなかったかもしれない。過酷な経験も知性もないのに、このような「経験を思想化した」詩を書きたいと思うのは身の程知らずでしかないからだ。

惹かれてやまない詩の冒頭をあげたい。

穫りいれがすむと

世界はなんと曠野に似てくることか

あちらから昇り むこうに沈む

無力な太陽のことばで ぼくにはわかるのだ

こんなふうにおわるのはなにも世界だけではない

死はいそがぬけれども

いまはきみたちの肉と骨がどこまでもすきとおってゆく季節だ

                           (「兵士の歌」)

世界を大きく切り取り、兵士であった自分とは何者か、問い詰めていく。壮絶な美しさのある、胸に突き刺さってくるような詩だと思う。

今も鮎川信夫の詩を読むたびに、自分の貧しいことばと単純な思考を恥ずかしく思うのだ。

                         引用は現代詩文庫『鮎川信夫詩集』(思潮社)

2012年4月23日 (月)

短歌との出会い 会津八一

子どものころ、よく鰹節けずりをさせられた。大工だった祖父から使わなくなったカンナをもらい、それで削った。

包装紙を広げた上にカンナを置くのだが、台がないので安定が悪い。ちゃんとした鰹節削り機があることなど知らないので、それが当たり前だと思っていた。

削られたものは紙の上に散らばる。新宿中村屋の包装紙だった。そこに歌が書かれていた。

かすがのにおしてる つきのほがらかに あきのゆふべとなりにけるかも

白い油紙にグレーの文字。小学校に上がるかどうかの年で、「かも」というのだから鳥のことが書かれているだろうと思った。鰹節を削るたびに見ていたが、やがて忘れた。それが先ほど記憶の底から浮かんできた。

「春日野にくまなく照り渡る月のほがらかに秋の夕べになったのだなあと思う」という歌。会津八一さん(1881~1956)作である。

子どものころに出会った短歌を思い出して、うれしくなった。ひらがなで書かれていたから暗記できたのだ。鰹節とカンナと中村屋さんに感謝である。

2012年4月17日 (火)

初めての場所

初めて行く場所については、きっとこのようであろうという映像を思い浮かべる。でもそれに近かったことは一度もない。

驚いたのが、某出版社。灰色のビルの一室を想像して出かけたら、仕舞た屋だった。「仕舞た屋」といっても若い世代は知らないかもしれない。元は商店をしていたが、やめた家のこと。

間口が広く、上半分が硝子になっている引き戸がある。引き戸を開けると土間だった名残の床で、居室は一段高くなっている。そういう家屋を事務所として使っていたのだった。

イメージとあまりにも違ったが、周囲の景観に溶け込んでいて、愛着が湧くような建物だった。今はないその出版社が懐かしい。

もう一つはニューヨークのギリシア料理店。白い漆喰の壁に黒白タイルの床を想像していた。昔からギリシアの移民が多いと聞いていたので、素朴でカジュアルな感じだろうと思っていた。でもそうではなく、マホガニー色で統一された重厚な雰囲気の店だった。

地図を見て初めての場所に行く。方向音痴のわたしはすんなりたどりつけたためしがないのだが、目的地に到着し、想像を裏切ってくれる建物に出会う、その喜びと楽しみを味わいたくて、今日も一人で出かけていくのである。

2012年4月10日 (火)

詩とは何か8 第一詩集のこと

1983年に第一詩集『ショランダーは金髪だった』(雨期編集部)を出した。まだまだ一人前ではないとわかっていたけれど、どうしても本の形にしたくて、印刷所で作ってもらった。

ショランダーは東京オリンピックで金メダルを4つ取った自由形の選手の名である。表紙には友人に撮ってもらった首都高速と西新宿の高層ビルの写真を入れた。首都高速はオリンピックのために作られた道路。1964年の開催に向けて東京は変わっていった。

すべて柔な抒情詩である。いま読むと、処女詩集だから何とか許されるような稚拙さに赤面してしまう。20代後半はまだ幼稚だったのだ。

人生経験もなく、これといったテーマもなかった。強いて言えば「疎外されたわたし」ということになるかもしれない。引用したい箇所はまったくないが、タイトルに関係がある詩を少し。

ショランダーが飛びこむと

画面いっぱいいに白が爆ぜる

水しぶきをよけ拭ったりしながら

濡れた髪の色を見ていた

                 (「記憶の色)部分)

オリンピックの時、わたしは8歳だった。それについて書いた詩が多いのは、自我意識を持った時期だったからだと思う。その夏、家族や叔母たちと親戚の住む海辺の町に行った。母にとっては親しい場所であるが、わたしには波も魚も他所の家も、すべてが恐怖だった。溺れそうになり、魚は食べられず、アレルギーのため蕁麻疹が出たけれど、誰も助けてくれない。他人の冷たい視線を初めて感じ、自分は一人なのだ、一人で生きていかなくてはならないのだとわかった。

その思い出、少女時代と訣別するためにも、詩集を出さなければならなかった。自分の半生と折り合いをつけるために。

2012年4月 7日 (土)

詩とは何か7 萩原朔太郎

萩原朔太郎が好きである。詩集でいえば『純情小曲集』、殊に「郷土望景詩」。文語体で書かれているのに、読み返す度に「帰って来た」という気持ちになる。中原中也や立原道造の詩は通過するだけだった。なぜだろう。

「郷土望景詩」は前橋での少年時代を回想する詩だが、悲憤に満ちている。詩人は故郷では受け入れられなかった。そのことを恨みに思い、「一気呵成」に書いたもの。

いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

われの叛きて行かざる道に

新しき樹木みな伐られたり。  

             (「小出新道」部分)

われは指にするどく研げるナイフをもち

葉桜のころ

さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。

             (「公園の椅子」部分)

このとき朔太郎は30代後半だったか。懐かしくも悲しい前橋の街。彼は故郷では受け入れられなかった。詩人は不幸な淋しい存在なのだ。それを知って何だかうれしくなった。詩人は孤独であり、孤高のひとであってほしいと思っていたのである。

何度か前橋に行き、広瀬川を見たことがある。柳の下のベンチに座って。流れの速い苔色の水だった。

直截に思いを歌った抒情詩だから、まっすぐにとどく。さらにこれらの詩篇の音楽的なことばの並べ方、喚起される映像は戦後詩の詩人たちに影響を与えたことだろう。

たとえば、「新前橋駅」。「野に新しき停車場は建てられり/便所の扉風にふかれ/ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。」を読むとき、鮎川信夫の「夏を送る即興詩」の「海水浴場の/ロッカーの戸がバタンバタン/揺れている」を思い出す。

偶然かもしれないが、そういう小さな箇所を探す楽しみもある。そして多くの詩人たちの手になる朔太郎論を読む楽しみが待っている。そのようにして詩はつながってゆくのだろう。

2012年3月28日 (水)

グラジオラスの行方

2006年9月号の『短歌』(角川書店)を落手した。「我が青春の歌」という特集で道浦母都子さんが中島直子さんの歌について書いている。短い文章だが、中島さんの歌が12首紹介されている。そのなかからいくつか。

耳鳴りの激しき夜は首振りて鋭角の耳あるけもののごとく

わがいのちの果てまで共にゆく人と思わず遭いし君十九才なりき

大学を去りしことなど語り給う夜の電車に片隅を選りて

道浦さんは作品を読む度にショックを受けたそうだが、一度も会ったことがないという。意外だった。同志のような二人だと思い込んでいたのである。

若き日の歌を読むことができたことはうれしいのだけれど、その先が知りたい。70年安保の熱い体験をどのように引きずったのか。どんな歌を書いたのか。

けれども道浦さんは「中島直子が、短歌を続けていたら、どんな歌人になっていただろう」と書いている。やめてしまったのだろうか。

そんなはずはないと思う。当時は二人の子どもを育てながら教師をなさっていて、ハードな日々だったはず。それでも文学について知っていることを生徒に惜しみなく与えてくれ、家族への愛情を大らかに語っていた。その中心に短歌があったのではないかと思う。

数年前に退職なさったことを学内報で知った。先生方のなかではちょっと異質なタイプのように思っていたので、長く勤められたことに驚きもした。

もしまだ書き続けていられるのなら、ぜひ歌集を作ってほしいと思います。

2012年3月26日 (月)

グラジオラスを楯にして   

わたしに鈴木志郎康さんの現代詩文庫を薦めてくれたのは中島直子先生だった。私立の温室のような高校に赴任してきた若くて熱い先生は生徒の人気を一身に集めた。

授業中に教科書をそっちのけにして文学の話をすることがあった。ビートルズや深沢七郎、三島由紀夫等々。近藤芳美さんの元で短歌を書いていて、新人賞をもらったと聞いたこともある。道浦母都子さんの名前も出てきた。

それなのに先生の歌を読んだことがなかった。短歌に興味がなかったのだが、今回ようやく先生の歌を見つけた。

石という石アスファルトで覆っても私は心につぶて集める

轟きて闇に火を吹くガス銃にわが楯は一本の赤きグラジオラス

                    中島直子 未来合同歌集『翔』(1975年)

デモに参加した若い女性の思い。名歌だと思う。先生は全共闘世代を代表する歌人だったのだが、そのことは話されなかった。

話したとしても脳天気な女子高生には理解できなかっただろう。ただ全身で生きている、そのことがわたしたちを感動させた。社会の動きには無関心で恋愛も知らない無知なわたしたちにも先生が特別な存在であることはわかった。

歌集は出されていないようだし、今も短歌を続けているかわからないけれど、これから中島直子さんの歌を探して読もうと思っている。

2012年3月23日 (金)

女であること スノードームのように

スノードームという飾り物がある。球形の透明な瓶を水で満たして建物や人形のミニチュアを入れたもの。逆さにすると雪がゆっくり降ってくるようになっている。クリスマス時期に特に売れるらしい。

それを見る度に、女であるということは、こんなふうに世界をつくることを要請されているのではないかと考える。

大切なもの、好きなものを柔らかく包むこと。母親になれば、子どもを真ん中において、敵や外からの異物からもまもるという役割が加わる。

ものを書くことを選んだ女性は二つのドームを維持することになるだろう。自分だけの世界と、世間一般の母親として子どもに見せてやるべき世界。

彼らが自力で生きる知恵を持つまでは身体を張りつづける。尖ってはいけない。丸くなって雨風を防ぐのが母親の仕事である。

白い雪と黄金の塵を降らせ、見る者を惹きつける。そんなことはできないにしても、女である限り、ドームのようであることが求められているのではないだろうか。

エゴのかたまりである物書きの女性たちにとっては、なかなかきついことかもしれない。

2012年3月14日 (水)

詩とは何か 6 続どんな詩を書いてきたか

テーマがなかったと書いたが、10代後半から20代にかけては「片をつける」という漠然とした主題があった。70年から80年代、現代詩の世界で、過去や経験、すなわち自分と「折り合いを付ける」ということが頻りにいわれていたと思う。

語るような経験はないが、自分の核にあると思える硬い悲しみについてなら書くことができるような気がした。自分のなかの〈欠落〉を埋めること。それが埋まったとき、次のステップに行けるのではないかと思った。

抒情詩はそれを表現するためにふさわしいスタイルだった。というより、日本人であれば、日本的な心性として身についているものなのかもしれない。獲得しなくても、自然に表現しようとすれば抒情詩になった。

けれども〈欠落〉はなかなか埋まらなかった。自分が成長し、意識が変わらなければ埋まらないものなのだろう。

24のとき、初めて投稿をした。『抒情文芸』という投稿誌で、選者の安西均さんが「Aという街」という短い詩を掬いあげてくださった。平明なことばで書いた抒情詩である。一部を引いてみる。

私のために開くことのない扉には

しるしをつけてゆく

モルジアナの×や×

忘れたいひとつの扉に

他の多くが似るように

忘れまいとする

それが意志であることに気づいてはいても

辛口の評ではあったけれども、投稿欄ではなく本文に載ったことは大きな喜びだった。何とか書き続けられそうだと思った。

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