詩とは何か 10 福間健二
30のとき、今はない『詩学』で詩誌月評を一年間やらせてもらった。無名だったし自信などまったくなかったけれど、よい詩を見つけることが仕事だと割り切って、毎月たくさんの詩を読んだ。
福間健二さんの詩に出会ったのは加藤健次さんが発行する『防虫ダンス』誌上だっただろうか。千石イエスをモデルにしたと思われる教祖やウサギやびっくり箱について書かれた長い散文詩だったと記憶している。
とにかく群を抜いておもしろかった。やわらかなことばで語られる小説のような詩の世界。それまで現代詩に感じていた窮屈さのようなものから自由であると思った。
対面を果たしたのは3年後である。黒い皮のジャケットを着ていらして、デザイン関係の仕事をしているひとのような印象があった。一時詩から離れて、戻って来た福間さんを見つけたのがわたしだったそうである。
それから私家版の『最後の授業/カントリー・ライフ』が届いた。1972年から1983年までに書かれた詩がおさめられている。538ページ。『青い家』のように厚く、装幀も似ている。
自分の詩のスタイルが定まらず、苦しんでいたわたしは、書く前に必ずこの詩集をひらくようになった。任意にひらいたページを書き移してみる。
まっさおな伝説の崖の上に置きざりにされる男が
ぼくの誕生日の朝に雨をふらせる
祖先ののこした悲しい檻について
みんなが黙っている土地で生れたぼくは
うずくまり やがて他人の死で凍った河を泳ぐ
(「熱のある誕生日」部分)
入力しながら、一つのことばやイメージを引きずらない、ニュートラルな主体が疾走していく詩であることに気づいた。当時わたしはアメリカの小説に興味を持っていたが、福間詩の世界にはそれに近いものがあると思っていた。
いずれにも片寄らない、中立的な「ぼく」。そのポジションを福間さんは早くから詩の主体に選んだのだ。
1995年に出した『何かひとつ新しいこと』(雨期編集部)という詩集にはアメリカの小説、殊に短編から得たものも入っているけれど、福間さんの詩からも大きな影響を受けているのである。

