詩とは何か12 稲川方人
15年ほど前だったか、ネット上に掲載された稲川方人さんの詩「ひとりか、ふたり以上か、あるいは全体か」が話題になった。すばらしい詩だと思った。プリントアウトして何度も読んだ。
『稲川方人全詩集』(思潮社)では、タイトルは「コモンウェルス・チャイニーズ」になっている。冒頭を引く。
口いっぱいに綿をつめた子供たちが
赤い門をくぐった
そののち、二〇世紀はおおよそ幼年期のまま終わる
肥沃な正義が 息を殺しているから
僕はもう真水を飲まない
君の夏の髪の輝くように
飢餓のたましいはうつむいて広場を去った。
中国の文化大革命が背景にあるといってだろう。「僕」は大陸を行きながら個人と国家について考える。鍛えられたことばの強い美しさ。叙事詩のようでもある。ラストの3行は
コモンウェルス キウィタス マウツェトゥン
ひとりか、ふたり以上か、あるいは全体か
休むことなく考えるしかない。
2005年に稲川さんとお会いする機会があったが、ほとんど詩の話をしなかったため、『全詩集』を読むことにした。圧倒された。そして2007年、『聖--歌章』(思潮社)を手にしたのである。
聖書を連想する人も多いと思う。旧約聖書の『ヨブ記』など。けれども神は存在しない。絶望的な孤独のなかにある人間の彷徨。死の側に半身をあずけた者が世界の終わりを語っているように思える。その者は、神の力ではない何かを希求しているのではないか。
ことばの意味は微妙にずらされ、読み解くことはむずかしい。けれども詩人は嬉々として難解なことばを選んでいるのではない。そこには切実さがあり、ことばは重い。
第一章「戦時の町の花摘みの歌」の冒頭。
亡霊たちの見えない手を、落ち葉を燃やして暖めながら、
ごうごうと鳴る命の呻くのを聞いていた私の冬は、
粉塵のあがる服従の広場で夜明けを待っている
「戦時の町の花摘みの歌」「抵抗のコラール」「新しい塹壕の掘られた世界で」の三章から成る長編詩が『聖--歌章』である。読んでいる間、バッハの音楽を聴くときに似た陶酔感がつねにあった。
この困難な時代に詩を書くとはどういうことか。そして、その苦悩と喜びが語られているように思えてならない。
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稲川氏の詩は確かに、難解であると思います。しかし、それを本気で読む人を違う世界へ運んで行ってくれます。
言葉とは共通の意味の出入り口であるわけなのだけれど、氏の言葉には、それを超えた可能性を感じさせるものがあります。稲川氏の作品には、匂いや音や、手触りがあります。今、この国に詩と呼べる作品はあるのか?
稲川氏が日本最後の詩人と言われない様に、皆で何かを、作り上げていかなければなりません。
投稿: 上田利朗 | 2012年12月23日 (日) 20時51分
コメントをありがとうございます。
読者であるわたしたちは、稲川さんから手渡された詩を、読み解く楽しみ、それを現在へとつなげる試みを課題として与えられているように思います。
投稿: 羊 | 2012年12月24日 (月) 15時16分